シヴァ神には他の御名もあります。
この御名の背後にある愛の原理を正しく理解したときにだけ、宇宙の本当の姿を認識することができます。
その御名はサームバシヴァです。
「サー」は「神性」という意味であり、「アムバ」は「宇宙」を表しています。
「シヴァ」は「プルシャ」(至高の人間)を意味しています。
1990年2月23日
シヴァ神には他の御名もあります。
この御名の背後にある愛の原理を正しく理解したときにだけ、宇宙の本当の姿を認識することができます。
その御名はサームバシヴァです。
「サー」は「神性」という意味であり、「アムバ」は「宇宙」を表しています。
「シヴァ」は「プルシャ」(至高の人間)を意味しています。
1990年2月23日
もう間もなく、日程の半分が過ぎようとしています。
これまで振り返ってみていかがでしたでしょうか。
霊性修行を進めるためのコツは、自分の変容に気付くことだと言われています。
日々の人生の中で、ほんの僅かな変容を見つけることで、次の一歩が変わってきます。
これまでの中で、自分の変容はいかがでしょうか。
何か小さな変容、もちろん大きな変容でも、お寄せください。
みなさまの変容のお話が、他の方に、あーそれも変容だった、との気づきと勇気づけを与えることもあります。
もちろん、ご自分の変容をもたらしてくださった、神様への感謝と明確化にもつながります。
お待ちしております。
さて、本日は代々木公園イベント会場にて開催されました、ナマステインディア2024に夫婦で伺わせていただきました。
一番の目標は、サイババ書店様にて、どうしても学ばせていただきたいと願っていた書籍数冊と、Tシャツ他を買い求め、サイババ様からのおみくじ(メッセージ)をいただき、その御言葉の実践を目指していたからです。
その後は、各ブースを巡り、インド綿のお洋服やストール、ポーチ他雑貨も数点購入致しました。昼食にはカレーとラッシーをとてもおいしくいただきました。
どちらのブースに参りましても、我先にという方もなく、お先にどうぞ的な雰囲気、そしてインド感をたっぷり味わうことが出来て、大変有意義な一日を過ごさせていただきました。
ありがとうございました。
神奈川:女性
あなたが祈りを始めてまだ間もないうちは、声を出したり、小さくつぶやいたりする必要があるかもしれません。
しばらくすると、黙って唇を動かすだけで充分になります。
そしてついには、あなたの内なる声が、一日中、「イエス、イエス・・・」と呼んでいるのが聞こえるようになります。
このようにして聖なる御名を繰り返し唱えることによって、あなたの帰依心は大いに高まり、神の平安がもたらされます。
1978年12月24日
| なぜ、まず自分自身を変えなくてはならないのでしょうか。
この見聞きする世界は、神であり自分の写し鏡と言われています。
鏡に映っている人を変えようと、一生懸命頑張ってみても変わりません。
唯一、その映っている姿を変える方法は、その被写体である本人が変われば、鏡に映っている人も変わります。
例えば、映っている人の右手を上げさせたいのあれば、自分が右手を上げれば、映っている人も右手を上げます。
とても簡単に。
と、分かっていても、その映って感じている世界と、自分という世界は別なのだと思ってしまうのです。
悲しや、悲しや。
東京:男性
さて、本日のサイババ様の御言葉を、有り難くいただきました。
ラーマクリシュナ様が、
「神の恩寵と神のビジョンを勝ち得ることに成功しなければ貴重な時間が無駄になる、人生そのものが無駄になる、と信じていたからです。」
という一節に、私もそのように信じたいです。信じます。
そして、私のナーマスマラナメモに、こちらをさらに追記して実践させていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
| 神の御名に集中したとき、何が起きると思いますか。
電車で、立川から高尾駅で乗り換えるつもりが電車の中で、またスマホに観入ってしまいました。
ロシアや中国の情勢はどのようになり、日本の首相も変わりロシアや中国の日本への関わりが、どのように変化するのか不安でスマホを観ていました。日本の市場はインドと繋がり、インドは大国になって行くだろうと妄想していました。
高尾駅で降り乗り換えるつもりが,相模湖まで乗り過ごしてしまいました。隣駅でも一区間が離れて直ぐ電車は来ません。あー!またやったと、途方にくれて神の御名を呟いていました。ふと娘に電話すると、遠くに出かけている娘が、直ぐ高尾駅に迎えに行くよ、神奈川の家まで送ってくれるとのこと!
高尾駅と神奈川の家は車で近いのに、電車乗り換えと、本数少ないバス乗り継ぎで、かなり遠いのです。夕方お友達と会う予定の娘が、偶然直ぐ来て生活用品の不足物の買い物して、車で家まで送り届けてくれて帰り大変助かりました。今日の体験からスマホ依存ではなく,幸せへの神の御名の依存に、神さまチャネルに切り替える重要性を切実に思いました。ありがとうございました。
神奈川:女性
シュリ・ラーマクシリュナ・パラマハンサは、母なる神の御姿を見ることを渇望し、何か母なる神の恩寵のしるしが現れるかもしれないと、毎日、朝が来るのを待ち焦がれました。
そして毎晩、今日もまた愛する母から一瞥(いちべつ)もされぬまま人生の貴重な一日が終わってしまったという苦痛に泣きました。
ラーマクリシュナは、落胆と深い悲しみで疲れ果て、打ちひしがれていました。
なぜなら、神の恩寵と神のビジョンを勝ち得ることに成功しなければ貴重な時間が無駄になる、人生そのものが無駄になる、と信じていたからです。
神の御名を口にしているときにこのような信仰心と愛と渇望があれば、それらは言わば、共に舌を転がって、必ずや神の恩寵をもたらすという結果を招きます。
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」 P.69
| なぜ、まず自分自身を変えなくてはならないのでしょうか。
自分の心が神の愛で満たされて幸福を感じていないと、他者に対してポジティブに向き合うのは難しいのではないか…と感じています。
自分の心にエゴや執着がある状態だと、その部分を他者やお金に埋めて欲しくて間違った判断をしてしまうと思います。
自分が神(愛)と一体であることを理解した時、心にある様々な混乱から解放され、本当の愛を持って人に介入できると考えています。私自身は人を変えたいとは思っていないのですが「愛を伝える行為」は子供や動物には必要性を感じていて、日々の中で重く受け止めて行動しております。ところが長い人生や波乱の人生などで培った価値観をお持ちの方々に関しては、ご本人が困らない限り介入の必要性も感じていないのが今の私の現状です。
これから自分自身の気持ちに変化があるのかどうか、穏やかに見守りたいと思います。
岡山:女性
| なぜ、まず自分自身を変えなくてはならないのでしょうか。
他人を変える必要性はあまり考えたことはありません。(説得とかの意味なのでしょうか)
自分の利益のためだけならばそれは疑問ですし、相手のためだけに変えることはありえるでしょうが、そもそもそれが本当にその人のためになるかは疑問があります。
結局自分の価値基準あるいは宇宙の価値基準のなかで、自分としても変えたいとおもうことを変えることが考えられます。
不完全な自己の義務が、完全な他人の義務の履行よりも正しいとギーター(「自己の義務(ダルマ)の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行うことは危険である」が)いうように、他人を変えるのは「他人」の義務であり、本来の「自分」の義務を遂行する方が、宇宙の法則からすれば正しいように思えます。
質問に対して質問で答えるようですが。
何かを変える場合それは今までの自分自身が何か問題があったようにおもえることもありますが、問題がなくとも、明らかに新たな問題に取り組み解決策を探ります。自分と相手に必要性があったとしてもまず、自分の義務として、その変化の必要性を考え、そ
れを他人に説得していくのでしょう。ただ、サイババの言葉に人の心を変えるのは天地をひっくり返すよりも難しいというものがあったはずですが、普通の人間では、それよりも自分の心を変えるというのが正しい義務だと思います。そしてその自己の義務を果たして後、他人がその義務の解決に納得することにより他人自らが変えようとすることになるのでしょう。
千葉:男性
御名を唱えるだけでは駄目だと思った。
過去の出来事が次々に思い出されるのは左脳が原因していることがわかった。
瞑想の基本から再び練習に入る。思考をとめる感覚と実践をしていく。
自分が神殿だと思い、礼拝する気持ちで呼吸をしていく。
呼吸そのものが、御名そのものになると言われている。
吸う息で神を招き入れ、吐く息で自分をお返しする。吸う息と吐く息の間の静寂を感じる。
静寂にならないと、礼拝できないし、次の段階の御名の練習に入るのも難しです。
仕事の休日は1日練習できますが、仕事中の練習は難しいです。
ですが気づいたことで左脳の働きを弱めることができたので、以前よりは進歩していると思います。
千葉:女性
| なぜ、まず自分自身を変えなくてはならないのでしょうか。
…自分自身の内面に向き合い、魂のハートに神様が住まわれていることを、確かに感じられるまでに霊性修行が進みますと、神様がハートを清めて下さるのでは?と感じております。
次に、神様が他の人へと、その感化をお許し下さるからなのではないでしょうか?
間違っておりましたら、すみません。
ありがとうございました。
神奈川:女性
毎日この通信が届くのを楽しみにしています。スワミの御言葉やみなさんのお便りに、励まされ、感動し、勇気をもらっています。
最初の3日間くらいは、カウンターで御名の数を数えていましたが、カウンターを使っていない時も気がついたら御名を唱えるようになってきたので、その後は数えるのをやめてしまいました。数を数えていると、どうも御名ではなくて数に集中してしまって。
何回唱えているかはわからないですが、最初に決めた数以上は確実に唱えていると思います。
気がつけば常に御名と共にあることで、どんな状況の中でも、「最善のことが起こっているんだなー」と、安心してくつろいで目の前のことに淡々と向き合っていられるような気がします。そしてのちに本当に最善のことだったと知り、「そういうこと?!」と、驚きとともに感謝でいっぱいになるのでした。
名前を呼べば、気づいていても気づいてなくても、どんなときも助けてくださっているのですね。いつも1番近くで助けてくださる神様に、これからも感謝の思いで呼びかけ続けていきたいです。
ナーマスマラナの効果は正しく理解されなければなりません。
神の御名を唱えることは環境を清めます。
最初の段階として、御名を唱える者のハートを清めます。
他の人を変えようとする前にまず自分自身を変えることです。
書籍「バジャン:神への讃歌」 P.121
このプロジェクトに参加させていただいてから、ひと月半。
始める前の自分を思い出してみると、明らかに変わってきている自分がいます。
今までも、神の御名を真剣に唱えているつもりでした。
しかし、こうやって、それぞれの御名は違っても、みんなで同じ方向を向き行うことの凄さを身に染みて感じています。
みんなとは、会ったこともないし、知らないわけですが、これがサットサングなんでしょうか。
みなさまに、そして、みなさまの中の神様に感謝いたします。
東京:男性
本日も、サイババ様の御言葉、お便りの数々から学ばせていただきました。
まずは、お便り151の方から、お許しのお言葉をいただき、ありがとうございます。
神様と共に歩まれるたくさんのエピソードの中に、人の温かさにも触れさせていただいた思いです。
ありがとうございました。
昨日に引き続き感じさせていただきますのは、神の御名に満たされ、勇気づけられるのは、帰依者を守り助ける神の力を示されているからなのですね。
「御名の意義や意味を把握するよう努めなさい。そうすれば、その御名の暗示している栄光を反芻することが出来ます。」
との御言葉を、私のナーマスマラナメモに追記して、早速今日から実践させていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
神の御名は、霊性修行(サーダナ)の道にある帰依者を守り助ける神の力をも示しています。
あなたが歌う御名の意義や意味を把握するよう努めなさい。
そうすれば、その御名の暗示している栄光を反芻(はんすう)することができます。
電話で自分の息子に男の子が産まれたと聞けば、あなたはとても嬉(うれ)しく思うでしょう。
けれども、もし自分が聞いた言葉の意味がわからなければ、どうやって相手が伝えたがっている喜びを得ることができるでしょうか?
それと同じように、御名の意味に注意を払ってバジャンを歌うことは、つねにあなたを神聖なエネルギーのより高い領域に留めてくれます。
そこでは、あなたは冷静で穏やかになるでしょう。
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」 P.58
| 神の御名に集中したとき、何が起きると思いますか。
私はベビーシッターの仕事を今年の5月からさせていただいています。
ほぼ一日おきに新しいお客様のお宅にお伺いしていて、初対面の赤ちゃんのお世話をさせていただくのですが、最近気がついたのですが、初対面の赤ちゃんが私の顔を見るなり、目をじっと見て、良く笑ってくれて、すぐ懐いてくれてお世話をさせてくれるので、とても楽しい時間を過ごさせていただきます。
そして本日、お伺いした生後4ヶ月の赤ちゃんは、お母様からお預かりした直後に私の抱っこで2時間眠り、初めてミルクを160cc飲み、「いない、いないバア」に初めて反応を示し、腹ばいになって足を逞しく使い、ハイハイの第一歩を踏み出しまして、お母様を非常に喜ばせた次第です。
月齢から、いつ起こっても不思議はありませんが、シッター5時間の中で次々起こったことで、神様の御力を見せていただいた気がしました。
25年前頃、初めてサイババ様に直接お逢いしてから、宇宙の天体の星々や夜空に輝く星と月や、輝く太陽と降る慈愛の雨と、野山の植物や透き通る水と川と海のさざなみに動植物と人間も同じ神聖な空気を吸い、そよぐ神の愛の風を受け、命の水をいただいて生きていると感じました。子供の頃から、お風呂上がり屋根の上で、夜空の星を眺めるのが好きでした。インドから帰国後、公園を歩いていると自分は、地球の上を歩いている。広い宇宙の中で、生きていると実感しました。
太古の昔から、全世界で宗派は違えど同じ空気を吸い、一つの神に祈っていると思われます。現代でも争いや災害等で混沌とした世の中が続いています。
神の御名に集中したとき、世間の目に見える物から、目に見えない世界が見え、初めてスワミにお逢いしたときのような、神さまや全てに感謝と愛が沸き上がると思われます。神聖な神さまの空気と、神の命の水をいただき、神さまと共に生きる素敵なことと思われます。
神の御名を継続することにより、毎日毎日が感謝の幸せへの御名の日々になるような気がいたします。
神奈川:女性
| あなたは満たされた気持ちになり、勇気づけられた気がするでしょう。
ーこれは実際にしなければわからなかったことです。例え神がいることは理論的にありうると考えたとしても、神の存在を実感することとは別でしょう。ナーマスマラナは神への一歩ですが、神がその何倍も我々に近づく「神聖な」何かなのでしょう。
千葉:男性
先日のジャパとナーマスマラナの違いについての質問に対して、解答して下さりありがとうございました。
長年疑問に思っていた事が解消されて良かったです。
ジャパは単に唱名を意味するようですが、ナーマスマラナについては、理解し難い深淵な意味があると感じました。
それを今回のプロジェクトで学んでいるんだと思います。
| お二方と申し上げた私。甚だしい間違いを、大変失礼致しました。
いえいえ、連日同じ物の紛失が恥ずかしく思い、こちらこそ語彙力足らずで大変申し訳ございませんでした。どうぞ、お気になさらないようにお願いいたします。昔から物忘れが多く、そそっかしいのです。北アルプスの山中で,お財布入りのポシェットを腰下ろして地図を広げたとき置き忘れ、山深い山中を一日中、何度も登り降り往復探したり、諦めて下山すると途中の山小屋に親切な方からポシェットが届けられてあり、引き返し山を登っています。厳冬期の冬山でも、写真を撮り、その場にスマホを落とし紛失しています。下山して家に帰りdocomoショップで検索していただくと写真を撮った北アルプスの尾根にスマホを落としていたことが分かりました。勿論,厳冬期の冬山雪の中を探すことは到底不可能です。夏は登山道のない薮山で拾いに行きませんでした。トレッキングポールも何本か休憩時忘れたり、他の杖も小さなナップザックもお手洗いに置き忘れしています。
今回の連日スマホ紛失で,現代ではスマホも貴重品です。やっとその場を去るとき,忘れ物がないか確認するようになりました。(笑)
物事の本質をしっかり捉え、神の御名のナーマスラナと神さまチャンネルに集中することの大切さを深く教えられました。
ありがとうございました。
神奈川:女性
さて、本日のサイババ様の御言葉を有り難くいただきました。
私は、サイババ様の御言葉通り、神の御名も、サイババ様の御言葉も、いただきますと、満たされ、勇気づけられる気持ちになります。
私の魂のハートに、ダイレクトに届くのは、やはり、神の御名と、サイババ様の御言葉なのだと、実感させていただいております。
ありがとうございました。
神奈川:女性
昨今、人々はナーマスマラナ〔神の御名の憶持、唱名〕やナーマ サンキールタン〔神の御名の朗唱〕の概念をばかにして笑います。
そして、名前にいったい何があるのか、と尋ねます。
名前は音の羅列にすぎません。
わたしの言葉もまた、音の羅列です。
しかし、それらがあなたのハートの中に入ってくると、あなたは満たされた気持ちになり、勇気づけられた気がするでしょう。
違いますか?
書籍「バジャン:神への讃歌」 P.166
先日のスマホをなくされかけた方が、お二方と申し上げた私。甚だしい間違いを、大変失礼致しました。
御本人様と、サイババ様、そして事務局はじめお便りを大切に読まれている方々に、お詫び申し上げます。
以後、気をつけて参ります。
お許し下さいませ。
さて、本日のご質問です。
「神の御名に集中したとき、何が起きると思いますが。体験やこんなことが起きるという想像をお寄せください。」
…私は、まずは、想像させていただきますと、世界中のすべての方々に見合った、神様からの通信や変化、成長を賜われるのではないか?と、考えています。
私自身の体験と致しましては、9月に入ってから、バジャンが聴きたくて、聴きたくて仕方がない衝動に駆られたあの日以来、毎日1~2時間は聴かせていただき、何百何十種類のそれから、いくつか歌えられる箇所が出て来たことが嬉しくて、小声で歌わせていただいたり、食事作りや洗濯物干し&たたみ、お風呂等々で口ずさむことを、楽しみにしています。
それが最近、ふと気付かせていただけたことには、(私は、物心ついた時から、せっかちな性分が中々直らず、生活全般、時間配分を詰めていて、自ら忙しくしているのでは?と、これを何とか直したい、と願っておりました) 食事作りの際に、「落ち着いて、段取り良くすれば急ぐことはない」と、自然と、ゆったりした気持ちで、時には手早く作業をしなければいけない時も、心は落ち着いていて、ゆったりとしているのに、動きは早く出来ている、という自分自身がいるのです。
それを感じた瞬間、これは神様が、私を変容させて下さったのた!と、感謝でいっぱいになり、胸に手を当てて、サイババ様に感謝申し上げました。
とても不思議な体験をさせていただいております。
ありがとうございました。
神奈川:女性
シヴァラートリーに行う、バジャン、よどみのないキールタン〔一人で神に歌いかける歌〕、ナーマスマラナ〔神の御名の憶持、唱名〕は、ひとすじの集中を達成するのに役立ちます。
バジャン、ナーマスマラナ、そして、礼拝の儀式(プージャー)は、神を喜ばせたりなだめたりするためにではなく、自分自身の霊的成長のためにあることを理解しなければなりません。
書籍「バジャン:神への讃歌」 P.304
9月23日140号のお便りの中に、
(9月22日、 38日号のお便りのお二方が、共に大切なスマホをなくされたか?と思われてからの発見劇には、到底偶然とは考えられず、サイババ様の奇跡に他ならないのではないか?と)とありました。お恥ずかしいですが、そのお二方とは、同一人物の自分です。連日スマホを紛失して、新しい綺麗な紐に買い替えました。いろいろ考えさせられました。見つかったことがサイババ様の奇跡とすれば、スマホを連日紛失したことにより、スマホから流れる誰が流しているか知れない世間の膨大な情報のドラマに振り回せられるのではなく、心を神の御名と神さまチャンネルに合わせる大切さをサイババ様に教えられたように思います。
ありがとうございました。
神奈川:女性
さて、本日のサイババ様の御言葉です。
「すべてのサーダナはこの一意専心を究極の目標としています。」
今日から、この一節を心に留め置き、ナーマスマラナをさせていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
一意専心。まさに、スワミのおっしゃるこの言葉を理解するために、このプロジェクトに参加させていただいた気がします。
このプロジェクトに参加させていただいてから、一つの御名だけに集中し唱えていました。
ただただ、好きな、自分で決めた御名と御姿を変えずに、唱え続けました。
分かりました。一つの御名はすべての御名。すべての御名はつながっている。すべての御名はみな同じで一つ。
あれこれと御名を変えていたり、二股かけていたら、このことは分からなかったと思います。
これは説明してもなかなか伝わらないかもしれません。
下手の考え休むに似たり。まずは、とにかく徹底的にやって体験するのが、いいのだな、と教えられました。
東京
今日のお言葉はなかなか難解な問題を孕んでいます。日本の仏教でも密教は多くの神がおり、そのサンスクリットをお唱えしていましたが、これはどうなのかということです。日本の神道は非常に寛容で、サイババの教えがきちんと伝わるのはこの美点が影響していると思います。仏教も日本の神の教えをさらに深めたいという祖先の英知だと思います。(歴史的には仏教の日本での受容は一時的なかなりの混乱をまねきましたが。)基本的に今いくつかの御名と御姿に関しては「神の御名と御姿を決めては捨てる」という態度は日本人はとらず、いずれも大切に扱うという考えです。わたしも、日本の仏教の影響下では今の段階では複数のお名前をお唱えすることは許されるのではないかと思います。サイババも仏教徒はさらに仏教徒らしくというのが教えなので、「仏道」を真に実践するという観点の「ナーマスマラナ」は「唯一の」真実を求めるために「多数の」御名と御姿を用いるのもありうるのかとも思いました。神道や仏教の一意専心(この段階で二つですが)にはこの考え方はどうなのでしょうか。ヒンディも多神教とはいわれますが、「真実」を求めるために多くの神がいるわけで、西洋的な意味で多神教とはいえないというのが学んだところですが、そこでも他のお社に尊敬を欠くことはないようです。その世界の中で「ナーマスマラナ」についてを日本との比較で考えていきたいと思います。
千葉:男性
どのような不都合に遭ったとしても、規律を破ったり緩めたりすることなく、自分のサーダナを続けていくよう努めなければなりません。
自分が愛して大切にし、スマラナ〔憶持〕のために選んだ御名を変えるべきではありません。
もし数日ごとに御名を変えていたら集中は不可能であり、心(マインド)が一意専心に到達することはないでしょう。
すべてのサーダナはこの一意専心を究極の目標としています。
ですから、神の御名と御姿を決めては捨てるというようなことは避け、唱名(ジャパム)と瞑想(ディヤーナム)にはずっと一つの御名が用いられなければなりません。
加えて、すべての神の御名とすべての神の御姿は、自分が唱名(ジャパム)や瞑想(ディヤーナム)の間に想う御名と御姿以外の何ものでもないという、強い信念も得なければなりません。
書籍「ナーマスマラナ 神の名前の不思議な力」 P.125
| 人々は何故ゴシップをききたがるのでしょうか。
自分の生活に不満がある・偏った正義感・憂さ晴らしなどが原因ではないでしょうか。
他人を気にしすぎといいますか…
例えば芸能人のゴシップなどは自分の人生に何の影響も及ぼさないので、騒ぐ意味は良く分かりません。
喜ばしい話題は素直におめでとう、と思います。
常に「自分がその立場だったらどうだろう?」と考えるようにしているのでゴシップはどうしても好きになれません…
| どうして、愛は集中力をもたらすのでしょうか。
心を乱すものが無い時に人は集中できるのではないでしょうか。神を思い、神と一体になる事で心に思慕と歓喜が育まれます。
その歓喜が外へと溢れ出る時、欲もエゴもない穏やかな状態で日々の生活に集中できる気がします。
神(愛)の大きさに包まれていると感じる時、揺るぎない心で物事を成すことができるような気がしています。
岡山:女性
さて、本日のサイババ様の御言葉を学ばせていただき、感動致しました。
「御名は声で作られた神の姿です。」
「機械的反復を避け、礼拝の態度をもって深くひたむきに従事しなさい。」
はい、精進させていただきます、と心で強く決意致しました。
9月22日、 38日号のお便りのお二方が、共に大切なスマホをなくされたか?と思われてからの発見劇には、到底偶然とは考えられず、サイババ様の奇跡に他ならないのではないか?と、
本日二度も感動致しました。
こちらを励みに、明日からも頑張れます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
| 人々は何故ゴシップをききたがるのでしょうか。
ゴシップを聞きたがるというのは私にはないです。
(多分)それはやはりゴシップというものに接することが心苦しいからです。そしてこれは私の美点の一つだと思います。本来神である我々は神仏の美点や人の美点の方が望ましいことを知っています。
ただ、ゴシップが好きな人はいます。それが心地よいようです。
自分がゴシップの対象より優位であるということを確認すれば、精神が安定するのでしょう。それが心の見せかけの「平安」をもたらします。ただ、この「平安」は永続しないし、してはいけないもので、本来の「平安」の真逆のものです。むしろ「真我」は苦しんでいるはずです。
それよりは人々の美点を発見することが我々の「真我」は喜ぶのでしょう。そしてゴシップを喜ぶ人が真の幸せを発見していうことについて神の恩寵があるように祈ります。
千葉:男性
御名は声で作られた神の姿です。
舌によって御名が発音されると、心によって御姿が崇められます。
これらを機械的反復にしてはなりません。
御名の意味と御姿の意味するものは、同時に帰依者の意識を感化し、照らさなければなりません。
ですから、機械的反復を避け、礼拝の態度をもって深くひたむきに従事しなさい。
それのみが、あなたの内なる神から、必要な強さと、勇気と、平安と、歓喜を引き出してくれるでしょう。
書籍「ナーマスマラナ 神の名前の不思議な力」 P.52
| どうして、愛は集中力をもたらすのでしょうか。
北海道から羽田に戻り,羽田空港でスマホで写真を撮り食事をしました。
食事が出るまでスマホを観ていました。
食事を終えて帰宅するため駐車場に停めてあった車に乗り込むとスマホが無いことに気がつき慌てました。紐をつけていたましたが、キーホルダーの留め具が弱り外れたようです。
空港内を歩いて来た道を戻ろうと思いました。
羽田空港内でスマホが直ぐ見つかるだろうかとパニックになりました。心の中で神の御名を呼んでいました。魔法のアラジンのように、(ご主人様、おやすいごようです)と出てくる訳ないよと思いつつも、神さまスマホがなんとか直ぐ出てきますようにと心の中で、必死に神の御名を繰り返していました。娘が電話をかけると言うのです。何処にかけるの?ママのスマホに電話をすると言うのです。ロックがかかって開けられないと思いました。
娘はもしもしと話しています。誰と話しているの?拾った人みたいと言うのです。
相手の話しを聞きながら歩き始めて拾った方とお会いできて、直ぐスマホを手にすることができたことに信じられないと思いました。
駐車場のエレベーター前に落ちていて落し物を届けに行くところでした。神様と拾ってくださった方に感謝いたしました。
子供の頃,熱が出たときやお腹を壊したときお腹空いたとき等,母親に直ぐ訴えていました。それと同じで母親や神の愛には、無条件の大きな力の愛があり集中すると思うのです。
神の無条件の永遠の愛に集中力をもたらすのではと思います。
広い空港で神の御名を呼び、5分としないうちにスマホを手にできたことは、偶然なのか?神の愛だったのだろうか?不思議に思いつつも、とにかく直ぐ安心できたことに、
神の永遠の愛に心から感謝いたしました。
神奈川:女性
| 人々は何故ゴシップをききたがるのでしょうか。
→自分自身と他の人とを比べて幸せであるとか、優位であることを確認したり、他の人を蔑むような思いが心の中にあるからでしょうか?
聞きたがるときというのは、サイババ様の御言葉の中で度々お導きいただいております、私達人間の中の、"悪魔的性質"があるときなのではないか?と、自戒の念を込めて、そのように感じております。
ありがとうございました。
神奈川:女性
| 人々は何故ゴシップをききたがるのでしょうか。
朝出かけて駅のホームで、スマホがないことに気がつき慌てました。
電車の中でスマホがなく、心の中から神の御名を繰り返しました。新宿に到着して、ほんの1時間前に戻れたらと思いました。
バックトウザフイチャーのように過去には戻れない、神の御名を唱えて前に進もうと思います。
車の助手席の下にスマホが落ちていたそうです。
片手で、手荷物が多くスマホを落としたことに気がつきませんでした。帰宅して、スマホが無くて退屈だったでしょうと言われました。神の御名を繰り返し唱え、神さまのことを考え退屈ではなかったと話しました。スマホからの膨大な情報量に、振り回されることなく神を思い良かったと思います。
神奈川:女性
人々はしきりとゴシップを聞きたがる
けれども耳は 甘美な神の御名を聞こうとはしない
足しげく映画に通うのをためらうこともなく
しかし目は 内陣の神を拝することを躊躇する
目は何のために与えられたのでしょう?
あなたに耳が付いているのは何のためでしょう?
あなたは神の御名を憶念し、神の住み家に行くべきです。
このようにして、ラヴァとクシャは、ラーマの偉大さを嬉々として賛美しつつ、どのように神を崇めるべきかを人々に伝えて歩きました。
現代の若者たちは、ためらうことなく、恐れることなく、人々の間に神の愛を広める決意をすべきです。
そして、神の御名の甘美さ、御名に秘められている神性、御名と結びついている清らかさを、すべての人に気づかせるべきです。
こうした思いはハートから生じるべきです。
それが本当のナーマスマラナ〔神の御名の憶持、唱名〕です。
書籍「バジャン 神への讃歌」 P.210
| どうして、愛は集中力をもたらすのでしょうか。
…「神様は愛。愛は神様。」
以前お教えいただきました、サイババ様の御言葉の、このワンフレーズを思い出しました。
神様に信愛を持つ信仰心を育てられたならば、自分自身の魂のハートにおわす神様が、まじりっけなしの愛そのものへと大きく成長するからではないでしょうか?
そして、それが五官の感覚器官を制御された状態になり、集中力を発揮出来るのではないか?と、イメージしております。
ありがとうございました。
神奈川:女性
| どうして、愛は集中力をもたらすのでしょうか。
愛は無私の状態。「私」「私のもの」が無い状態です。
気をそらせてしまう、エゴや執着がないので、集中するのかな、と考えています。
神の別名は愛なので、神に集中することで、愛が増し、愛が増すことで集中力が増し、集中力が増すことで、神への集中力が増す。
この好循環が生まれる。
集中力を増すには、まずは、神を思い続ける練習をするのもいいかな、と思いました。
東京:男性
車の運転手は道に集中します。
それは、自分と同乗者が事故を免(まぬが)れることを切に望んでいるからです。
この場合、運転手を一心に集中する気にさせているものは、恐れです。
集中力をもたらしてくれる、より大きな力は、愛です。
もしあなたが、しっかりとした、確固たる愛を持っていれば、集中は真剣で揺るぎないものとなります。
信仰心は愛へと発展し、愛は集中をもたらします。
祈りは、そのような状況でも可能なことであり、果実を実らせはじめます。
御名を神の象徴として使い、祈りなさい。
心の波の一切を静めた状態を保ちながら、祈りなさい。あなたの極めて本質的な実在の義務の遂行として、あなたが人間としてこの世の中にやって来た弁明として、祈りなさい。
1961年11月23日
| 御名と御姿が授けてくれる至福の海に飛び込む
北海道ドライブの移動中、娘とお喋りになり、大きく声に出してサイババ!サイババ!サイババ!と繰り返しました。
すると突然,光の雨がシャワーのようにジャワーと降ってきました。娘が、何これ!と思い車を走らせ進むと辺りはキラキラ光輝き、光の雨のシャワーを浴びました。振り返ると後ろの山々の稜線に帯状の大きな虹がかかっており、とても感動しました。車の移動中で写真に収めることはできませんでした。光のシャワーの動画は摂ってあり、観てみると雨と光のシャワーの中、天上から一本の光の柱が真っ直ぐに降りています。
御名と御姿が授けてくれる至福の海にキラキラ輝く光輝く雨のシャワーを浴びました。
御名を繰り返し不思議な体験をしましたので、共有させて頂きたいと思います。光輝く雨粒のシャワーと山々にかかる帯状の大きな虹に感謝いたします。いつも感動で、長文お許しください。
神奈川:女性
さて、9/19、35日号通信では、サイババ様の御言葉では、ナーマスマラナにより、内なる愛(プレーマ)を育み、平安(シャーンティ)は愛(プレーマ)を通じて得られること、ひとたび心の平安(シャーンティ)が得られれば、他のあらゆる恩恵は自動的に獲得出来ることを習いました。
また、サットサングの皆さんのお便りから、ジャパとナーマスマラナの違いと、「I want you」から、プッタパルティでの経験談と帰国後の帰依者の方との会話からの変化、"神様からのいただきものは、拒まないで感謝していただくこと"を習いました。
私も、今日から、心の中をそのようにアップデートさせていただきます。
貴重なお話をいただき、
ありがとうございました。
神奈川:女性
ナーマスマラナには特に優れた点がもう一つあります。ヨーガ〔神との合一のための行〕や苦行(タパス)は、霊性修行者(サーダカ)の超自然的な力(シッディ)を呼び覚ますかもしれませんが、そのせいで自惚(うぬぼ)れにより盲目となった霊性修行者(サーダカ)は神を見捨て、霊性修行(サーダナ)で得た勝利や霊力を失うことにさえなりかねません。
ナーマスマラナの道はそのような危険で塞(ふさ)がれることなく帰依者の内なる愛(プレーマ)を育みます。平安(シャーンティ)は愛(プレーマ)を通じて得ることができます。
ひとたび心の平安(シャーンティ)が得られれば、他のあらゆる恩恵は自動的に獲得できます。こうした並外れた愛(プレーマ)は、ヨーガや苦行(タパス)で得られる特殊な力より、はるかに優れているのです。
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」P.24
ジャパとナーマスマラナの違いは、
ジャパ(japa): 神の御名やマントラなどを繰り返し唱えること。語源は jap : つぶやく。
*口に出して小声で唱えること
ナーマスマラナ(namasmarana): 御名(nama)を憶念すること(smarana)
*御名を心に思うこと
*声に出しても出さなくてもどちらでもよい
です。
東京:女性
ジャパはサンスクリット語で「繰り返し唱える」を意味します。ナーマスマラナもジャパなのです。ご質問のようにじゃあ違いは?となりますよね。
スマラナがサンスクリット語で「憶念する」と訳されますので、ナーマスマラナとは「心の中で」繰り返し唱える(=ジャパ)ということになります。
ですから、ジャパというカテゴリー内にナーマスマラナが存在するのですが、効力の面ではナーマスマラナがはるかに際立つのではないでしょうか。
その証拠に、ババ様がナーマスマラナは最高のジャパであると仰っております(出典:サティヤサイババの御言葉「シャヴァではなくシヴァ」1963/04/29 ナーマスマラナに関する御講話より)。
別のアプローチからみても、
1. ヴァイカリー(声に出して唱える)
2. ウパームス(ささやき声で唱える)
3. マーナシカ(心の中で唱える)
という3つの方法があり、3が最も効果的といわれているところからも、まさにババ様の仰る通りだと思います。
初学の身で失礼いたしました。
山梨:女性
サイババ様が、「私が何を欲しいか聞いた時はいつでも、「I want you」と答えなさい、と。
過去プッタパルティに訪れたとき、サイババ様のあの圧倒的な迫力に、スワミがいるだけでいい、何も要らないスワミだけ手を合わせ見つめていました。沢山のセヴァダルさん達が大きな籠を抱えプラサードを配っていました。自分の周りにも沢山プラサードが配られます。プラサードも何も要らない。スワミだけがいればいい、何も要らない。ただスワミだけを見つめていました。自分の周りの帰依者が沢山手を伸ばしプラサードを戴いています。次第に自分もプラサードが欲しくなり、いくら手を伸ばしても自分の手にプラサードが渡らなかったのです。
周囲は、皆さんプラサードを沢山戴いてます。思いっきり手を伸ばしても何故か自分にだけプラサードが手に渡らず何故?と思いハッとしました。先程までスワミだけ見つめ何も要らない、スワミだけいればいいプラサードも何も欲しくない。スワミだけがいればいいと手を合わせていたので、プラサードが来ないと思いました。やはり自分もプラサードが欲しくなり手を伸ばしてもプラサードを戴けなかったこと思い出しました。帰国して帰依者に話すと神さまが下さる物を神社でもお寺でもありがたく感謝して戴かないと拒んでは、ダメだよと言われました。それ以来、神社やお寺で神さまからの戴き物は、拒まないで感謝して戴くようにしています。スワミだけが居ればいい、スワミからの恩寵も何もかも戴きます。に変わりました。
神奈川:女性
不思議な力の御名
ナーマスラナと共に北海道の山を登りました。岩ゴロで歩きが不安定。
【サ】右足一歩出す。
【イ】左足を出す。
【バ】右足前に。
【バ】左足前に。
サ・イ・ババ! サ・イ・ババ!
のリズムで、岩ゴロの山を声に出して歩き呼吸も整いました。気がそれて止めると歩きが不安定になり、御名を声に出して歩くとリズミカルに歩き軽やかに安定しました。
足腰弱い方に、お勧めします。
不思議な力の御名に、感謝いたします。
神奈川:女性
さて、本日のサイババ様の御言葉です。
「誰にとっても、ナーマスマラナやジャパや瞑想ほど実り多く、普遍的で神聖な霊性修行はありません。」
私は、瞑想は、ヨガや冷静さを取り戻す時等に実践させていただき、ナーマスマラナは初心者です。
ジャパにつきましては、自己流の解釈で、正しく理解出来ているとは、到底思えません。
しかし、サイババ様がこれら三つの取り組みを、普遍的で神聖な霊性修行とお導き下さるのですから、これからは、ジャパも実践させていただきたいと思います。
ありがとうございました。
神奈川:女性
ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒は、宗教的慣習の違いこそあれ、神の御名を讃える行為においては一つです。
御名を唱える方法は宗教によってさまざまではありますが、この三つの宗教はどれも、唯一なる主の御名を繰り返し唱えるよう信者に求めています。
どの信者も自分の舌で紡ぎ出した御名を思い起こし、敬い、唱えます。
どの信者も自分の宗教の作法に従って数珠を繰ります。
すべて同じです。
誰にとっても、ナーマスマラナやジャパや瞑想ほど実り多く、普遍的で神聖な霊性修行はありません。
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」P.14
| 御名と御姿が授けてくれる至福の海に飛び込む
…あらゆる御名と御姿をもつ、
同じ一つの神様の至福の海に飛び込むことと習いましたが、
その時に、自分自身のあらゆる面が表出し、神様との融合するために磨かれるのだと、自覚しております。
私が飛び込む時には、サイババ様を憶念しつつ、
「私を、神様の一番良いと思われるように造りあげて下さい!導かれるままに変容し、再構築出来るように努めます。」
と、させていただきたいのです。
話が長くなり、申し訳ありません。
本日のサイババ様の御言葉と、
9/17の33日号の、心の激動を、果敢にチャレンジされている方からのお便りで、見事に繋がりました。
ありがとうございます。
私は、このプロジェクトに参加させていただきましてから、ナーマスマラナ数を数えるカウンターをサイババ書店様より購入させていただきました。
その際に同封いただきました、サイババ様からのメッセージ(おみくじ)には、
「エゴを磔にして、自由になりなさい」
と書かれていました。
目下、このクリアに向かって自分自身のエゴを磔にすべく、挑んでいるところです。
サットサングの皆さんに、また、勇気や熱い思いをいただきました。
ありがとうございました。
神奈川:女性
2024/09/18付 お便り123の方のメッセージに釘付けになりました。
かく言う私も全く同じ思いを抱いており、平穏なはずの生活に微細の無数のエゴが散りばめられていることに気づいて愕然としたのでした。
ナノ単位のエゴを取るって大変ナノ!
…気晴らしに呟いたところで状況は変わりませんが、大小せめぎ合うエゴを認識して手放す、というルーティンを不動のものにするのが、神からのミッションの一部と捉えている昨今です。
山梨:女性
ラーマ、クリシュナ、イエス、アッラー――これらは多くの側面をもつ者の御名です。
あなたが一つの面だけに注意を払っているときも、他の面は無視されているわけでも、否定されているわけでもありません。
ある一つの御名と御姿が授けてくれる至福の海に帰依者が飛び込むとき、それはあらゆる御名と御姿をもつ同じ一つの至福の海に飛び込んでいるのです。
その海の水が、『この神の領域』と『あの神の領域』を区切る境界線で分割されることはありません。
どこにでも飛び込みなさい。
それは全く同じ至福の中に飛び込むことになるのですから。
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」P.17
| ある一つの御名と御姿が授けてくれる至福の海に帰依者が飛び込むとき、
今まさに、私たちは飛び込んでいる最中です。
御名と御姿が授けてくれる至福の海に飛び込むとどうなりますか。
飛び込むには、御名と御姿に対しどうすればよいのでしょうか。
初めてホワイトフイールドに訪れたとき、アシュラム内を杖をついたお婆さんが目の前をサイババ!サイババ!サイババ!と声に出して歩かれていました。本場インドの帰依者は、凄いと驚き感動しました。
9月17日
今日から,北海道の山を登ります。
紅葉の始まった、北海道の山のヒグマは怖いと思います。インド人の帰依者のように、一歩一歩サイババ!サイババ!サイババ!と大きな声で、ナーマスラナを唱え神の御名をお護りに北海道の山々にサイババ!の御名を大きな鈴のように響かせて登ろうと思います。
神の御名のナーマスラナを知り
心から感謝いたします。
神奈川:女性
さて、本日9/16、32日号のお便りにて、素晴らしいお話を伺わせていただきました。
サイババ様が、「私が何を欲しいか聞いた時はいつでも、「I want you」と答えなさい、と。
なぜなら、あなたが欲するものが、本当にあなたにとって良いものかどうか、あなたには分かりません、と。
そして、スワミがいれば、すべてが良い方向に叶えられるからです!」
というお話でした。
誠にその通りと、感じ入りました。
私も、今日からは、
「I want you」とのみ答えます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
今回のプロジェクトに参加させていただいてから、
激動の人生を送っています。
と、言いましても生活や仕事や人間関係が変わったのではなく、
心の激動を送っています。
今まで普通に過ごしてきた、僅かなエゴが露になり、
それを手放さない限り、この、きつい苦悩から抜け出すことができない。
自分にも人にも良いと思われ、何十年も普通に過ごしてきた中に
エゴが隠れている。
人に話したい。優しくしたい。これにすら巧妙なエゴが隠されていた。
それがエゴだと分かると、あとは手放すまで苦しみは続く。
御名はそんな執着を表面に出してくれる、愛の力。
このエゴを手放せるチャンスは、今のこのプロジェクトの内しかない。
そんな思いでいる、今日この頃です。
東京:男性
スッブラマンニャの正確な意味は何でしょう?
それについて少し考えてごらんなさい。
スッブラマンニャは「普遍の絶対者、原初の創造主、宇宙意識であるブラフマンの悟りに到達した人」を意味します。
神のどの御名にも深い意味があります。
たとえば、ヴェーダの中で、ヴィシュヌ神はパラマと名付けられています。
パラマはパラマヌ、すなわち原子を意味します。
ヴィシュヌは遍在であり、原子と同じようにあまねく満ちわたり、宇宙の実体と、基盤として見出されます。
ヴィシュヌは原因であり、結果でもあります。
というのは、時の始まりには、それ以外何も存在しなかったからです。
一なる者が多となり、それから多は消滅し、一なる者が残ります。
1974年2月20日
【B】サット 絶対実在
【A】チット 純粋意識
【B】アーナンダ 至福
【A】アートマ 魂
日中、神の御名を唱えられなかった日、夜中目が覚め御名を唱えて眠りました。
早朝、自分の部屋が朝焼け色に染まり白いカーテンも紅く染まっています。部屋中が紅く気になり外に出ました。
大空に大きな虹が現れていました。
霧雨が降り言葉にならない神秘的な大きな虹に、神を思い御名を唱え続けました。
神秘的な虹はいつまでも消えませんでした。神の御名を唱え続けました。
絶対実在の純粋意識のアートマの至福に浸りました。
想像を絶する素敵な体験に感謝いたします。
神奈川:女性
サイババ様の御言葉にて、ババ(BABA)の名前の意味を習いました。
まさに、『ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力』とは、綴りの中に込められている意味の、何と素晴らしいことかと、感動し、清々しい気持ちになりました。
神様の御名を唱える時も、憶念する時も、必ず思い出します。
ありがとうございました。
神奈川:女性
「幸せへの御名」、本当にいい名前ですね。
スワミの御名は、幸せの中の幸せ、この世の何ものにも変えられない至福の蜜の甘さの響きがします。
Radio Sai のお話を思い出します。その帰依者の方はいつもスワミのお近くにいるのに、何もスワミにお願いできずにいたそうです。奥様は明日こそ、これこれをスワミにお願いしてきて下さい、とリストを並べました。
次の日に、今日こそは!と座っていると、スワミの方から、「何が欲しいですか?」と尋ねられました。
その帰依者の方が、そのリストを口から発っしようとした瞬間に、スワミは、「シーっ」と遮られ、「何も言ってはいけまさん」、そして、これからとても大事なことを教えましょう、と仰いました。
私が何を欲しいか聞いた時はいつでも、「I want you」と答えなさい、と。なぜなら、あなたが欲するものが、本当にあなたにとって良いものかどうか、あなたには分かりません、と。そして、スワミがいれば、すべてが良い方向に叶えられるからです!
このお話を聞いて、本当にその通りだと思いました。
そして、スワミの御名を唱える時は、「あなたが欲しい。あなただけが欲しい。他の何もいらない。私すら粉々に砕いて失くして下さい。」という思いで唱えています。
そうすると、どんな気持ちの時も、スワミの中に溶けていき、純粋で、穢れのない、唯一無二の感覚へと、マーヤーが真実へと、暗闇から光明へと変化していき、日常生活が、スワミへ向かう道へと変わっていくのです。
私たちは世俗の中にいながら、そこには存在せず、世俗の幸せとは無縁の、たった一つの幸せ、至福を感じることが出来る。スワミの御名はそんな響きがします!
千葉:女性
私は今、皆さんに『ババ』の意味を教えなければなりません。
ババはBABAと綴(つづ)ります。
最初の『B』はBeing絶対実在を、次の『A』はAwareness純粋意識を、三番目の文字『B』はBliss至福を、四番目の文字『A』はAtmaアートマを表しています。
繰り返しましょう。
最初の『B』すなわちBeing絶対実在はサットであり、次の文字『A』すなわちAwareness純粋意識はチットであり、三番目の文字『B』すなわちBliss至福はアーナンダです」
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」P.57
| どのように意義を留めて唱えていますか?
【全知全能】 全てを知りどんなことでもできる完全な能力を持った存在。
数年前,家族で富山県の立山登山に行き,雷鳥沢テント場にテントを張りました。台風が静岡県付近に接近し、明日は富山に直撃する予報。登山どころではなくなりそう。神さまに台風が富山県を通過せず台風が何処かに行ってくれるようにお祈りました。
家族にも、台風が直撃しないよう祈ろうと言いました。主人は、また始まったと思っている様子。
とにかく心を込めて神さまに祈ると必ず祈りは神に聞き届けてくださる。祈ろうと娘と主人と3人で、神さまにお祈りました。神さまに全身全霊込めて心から祈り続けて、シュラフにもぐり祈りながら眠りにつきました。
夜中12時頃、お手洗いに起き天気情報を見ると、台風が富山県手前で、右に直角に曲がり福島方面に向かっているのです。テントから出て空を見上げると、キラキラ輝く満天の星空でした。主人や娘に、神さまがみんなの祈りを聞き届けられたことを話し立山登山を楽しみました。勿論、立山の山頂でお祈りし、山頂の神主様から御祈祷して頂きました。娘は目の前に広がる雄大な剱岳の雄姿に感動しきりでした。神さまに深く心から感謝いたしました。
昨年は,北海道の帰り稚内空港で、TVを観ていると、東京は台風の影響で風と雨大騒ぎしている様子でした。
自分達の乗る飛行機は、大丈夫だろうか?と思っていると空港の女性スタッフが,自分達親子を探して来られ、これから出発する飛行機に乗りませんか?と伝えられました。自分達が乗る予定の次の便でいいです。と話すと、これから台風の影響で、次の便は欠便の恐れもあります。今飛び立つ便に乗られませんか?座席はあるのでしょうか?ちょうど2席空きがあります。ただ着陸地が、羽田ではなく,成田や中部国際空港になる場合もあります。このような状況で飛び立つ変な話しと思い自分達親子を探して来られたことに感動しました。サイババ様の体験談によくある話しと思い何か意味があるのではと不安に思いつつ、乗りますと搭乗しました。座席につくと機長のアナウンスで,台風の影響で,着陸地は、羽田ではなく成田や中部国際空港に着陸する場合もございます。ご了承ください。機内が大きく揺れる場合もございます。着陸するまで、安全シートベルトは外さないで、着けたままにしてください。お手洗いは、スタッフの案内に済ませるように。もしも機内が大きく揺れて酸素マスクが下り脱出シートで、避難する場合は写真等撮らないでください。娘に怖いね、緊張するねと話すと呑気な娘は、深刻に考えずワクワクしています。自分は,かなり不安症、心配症です。これまでネパールの山岳地帯を小型機で飛んだ経験もあり不安でしたが,今回は、台風に向かって飛び立つ飛行機は大丈夫だろうか?と心配でした。神さまの御写真を、お財布に入れて助かった例を知ってから、自分もインド帰りの娘からもらったサイババ様の御写真を、お財布から取り出しサイババ様の御姿を見ました。離陸してから怖がりの自分は、ただただ神さまに無事羽田に着陸しますよう祈り続けました。
娘と千葉県の成田に降りたらどうしよう、何処かに泊まり朝の電車で帰ればいいよ。もしも愛知県の中部国際空港に着陸したら、明日は仕事どうしよう。考え過ぎないで、その時考えよう。とにかく心配症、不安症の自分は、この飛行機は、台風に向かって大丈夫なのだろうか?恐怖心で、ずーっと神さまに無事着陸できますように祈り続けていました。時折りガタガタと揺れ、神に祈り続けながら羽田に無事着陸しました。窓から外を見ると小雨で、外に出ると雨は止んでいました。台風は何処へ行ったのだろうか?娘はSNSで、みんな台風は何処へ行った消えたと騒いでいるとのことでした。怖かった台風13号が消え不思議に思ったこと思い出しました。
神への祈りは、台風の進路を変更と消滅してくださるのだろうかと不思議に思い返しています。神の御名を唱えられることに心から深く感謝いたします。
神奈川:女性
| どのように意義を留めて唱えていますか?
「普段は静かなのに突然わきあがる悪い火」のようなものの存在を自分の心の中に感じています。その悪い火も自分自身で生み出している物なので、「自分を知ること」「自分とは何だろう?」を意義に留めて唱名をさせていただいています。
岡山:女性
| どのように意義を留めて唱えていますか?
⇒昨日までの私は、サイババ様に近付けるよう、甘さと美しさ、芳香を感じ、食べ物の施し(アンナダーナ)に感謝して、そして最終目標は、すべての人々と共に、サイババ様の蓮華の御足にたどり着けるように、世界中のすべてが幸せでありますように、というイメージで唱えておりました。
しかし、幸せへの御名99通信30日号では、ラーマ様の言葉の意味や力の数々とその意義を習いました。
昨夜からは、ラーマ様からいただけるお力、罪(パパム)と苦しみ(タパム)と無知(アグニャーナム)に打ち勝つ力と、真理(サッティヤム)と吉祥(シヴァム)と美(スンダラム)という神性を表出させる力を賜われるようにというイメージを加えて、唱えさせていただきました。
唱える時間は長くなりますが、今日からも、丁寧にさせていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
| どのように意義を留めて唱えていますか?
私にとってナーマスマラナは、神へ呼び続ける時間だと思っております。
神だけなら、世間でいう「かまってちゃん」でもお許しくださると。ナーマスマラナによって、依存心は専ら神に向けられております。
時には最も短い助けを求める言葉に、幸運を感謝する言葉になりますことを、日々の生活でつくづく身に染みております。
山梨:女性
| どのように意義を留めて唱えていますか?
「意義」の意味を辞書で調べたら、「①意味、わけ②価値、重要さ」とありましたので、御名にどのような意味と価値を感じているのかと言うふうに質問をとらえて答えさせていただきますね。私は御名を唱える時は、ひたすらにババのことを思って魔法の呪文のように唱えています。私の究極の願いが叶いますようにと。私の究極の願いは、「みんな幸せになりますように」です。
大阪:女性
ラーマという言葉はアートマを意味しています。
ラーマという言葉は『ラ』と『アー』と『マ』という三つの音で構成されています。『ラ』は火の原理(アグニ)の神秘的な象徴であり、私たちの罪や悪い傾向を燃やして灰にしてくれます。
『アー』は太陽の原理(スーリヤ)の象徴であり、無知(アグニャーナ)の闇を滅してくれます。
『マ』は月の原理(チャンドラ)の象徴であり、苦しみという熱(タパム)を冷ましてくれます。
このように、ラーマ・ナーマスマラナ〔ラーマの御名の憶持〕には、人生における三つの悲劇である罪(パパム)と苦しみ(タパム)と無知(アグニャーナム)に打ち勝つ力と、真理(サッティヤム)と吉祥(シヴァム)と美(スンダラム)という神性を表出させる力があるのです。
こうした意義を心に留めて、ラーマの御名を繰り返し唱えるなら、あなたはじきにその効力を味わうことでしょう。
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」P.54
さて、本日の29日号のお便りにいただきました、クリシュナジャンマシュタミーの御講話よりの動画を拝見し、感動をいただきました。
ありがとうございます。
音楽で神を讃えることは、神様に喜んでいただけること、センスがなくても良いことを伺わせていただき、安心しました。
私は、二年半前くらいから、朝の愛犬のお散歩の行き道で、愛犬と二人でのナガラサンキールタンのつもりで、ラーマバジャンと、ゴーヴィンダクリシュナジャイバジャンの、二つのバジャンを歌いながら歩いています。
無理なく覚えられ、何よりとても好きなバジャンなのです。
今日、私は、さらにバジャンが好きになりました。
新たなバジャンも覚えたくなりました。
ありがとうございました。
神奈川:女性
| 先日の疑問/質問 「ものの名前、神の御名」
この世にあるものにはすべてに名前があります。
名前のないものは、この世に存在してはいません。
スワミのおっしゃるように、名前とその対象はひとつです。
なんの違いもありません。
名前を聞いたり心で思うことで、
その対象(火事、蛇、レモネード)の影響を受けてしまうのは当たり前かもしれません。
対象が神様であれば、その名前も神そのものであり、
霊妙な影響を受けるのも、これも当たり前かもしれません。
しかも対象が霊妙であれば、名前も霊妙な流れの中で付けられ(?)その音も霊妙であると思われます。
東京:男性
クリシュナという名前をあげてみましょう。
『クリシュナ』は、最も魅了するもの、すなわち至福(アーナンダ)を意味します。
また、打ち砕くもの、破壊するものという意味もあります。
ですからクリシュナは、体と世俗の物事に対する帰依者の執着を打ち砕き、内なるアートマの至福(アーナンダ)を顕現させる神の力を象徴しているのです。
このババ様のご講話で、いかに音楽に合わせて御名を唱えることが大切かを知りました。
「クリシュナジャンマシュタミーの御講話より」
https://youtu.be/ThO_7anuzyw
その思いで音楽と共に御名を唱えると本当に至福と喜びそのものを体験できたのです!
神は音楽を愛する、音楽の素晴らしさがわかりました。
東京:女性
さて、サイババ様の御言葉を有り難くいただきました。
神の御名(ハリナーマ)と、食べ物の施し(アンナダーナ)を唱えることが、グニャーナ(高次の英知)を手に入れるための重要な条件、基盤となる徳、そしてそれらが二つの翼となって、あなたを天国に連れて行く、と習いました。
私は、今日からナーマスマラナの際には、食べ物の施し、アンナダーナをセットにして唱えさせていただきます。
サイババ様の、「100の仕事が出来る人は、101個でも出来る」という内容の御講話を以前習いました。
サイババ様を見習い、何かをつけ加えることや、自分自身の間違いを訂正することを厭わず、自分自身の変容に、チャレンジして参ります。
ありがとうございました。
神奈川:女性
今日、グニャーナ(高次の英知)を手に入れるためには、神の御名を頼りにしなければなりません。
カリユガ(末世)においては、二つのものが最も重要です。
それは御名(ナーマ)と施し(ダーナ)です。
食べ物の施し(アンナ ダーナ)と神の御名(ハリ ナーマ)を唱えることです。
これらが最も重要な必要条件です。
もしこの二つの基盤となる徳を具えるならば、それらが二つの翼となって、あなたを天国に連れていく役割を果たすことでしょう。
1988年3月26日
| 昨日の疑問/質問 「ものの名前、神の御名」
ものの名前がマインドに強い反応を引き起こす理由…
とても難しいですけど、好きなもの、嫌いなもの、恐怖を感じるもの、それらはいつも刺激として外側から自分の心に影響を与えているように思います。
神の御名は自分自身が神と一体となり、愛そのものとして内から外へ溢れ出ていると思います。
初めて昨夜、音楽に合わせて唱名をしてみました。集中も切れず良い経験になりました。
岡山:女性
| 昨日の疑問/質問 「ものの名前、神の御名」
…今朝、このご質問を含む27日号を拝見させていただき、読み進めて行くうちに、目覚めた私自身の体調の悪さ(気だるく、心も重く、気合いを入れないと起き上がるのが辛い状態であったこと)が瞬時に理解出来たことと同時に、『プラサード』他の、サイババ様の御講話にも度々伺わせていただきました、激性(ラジャス)、浄性(サットヴァ)、鈍性(タマス)の、三つの性質を思い出しました。
浄性の食べ物は、霊妙さ、精妙さをいただき、私たちの真の活力となることを習いました。
ものの名前が私たちのマインドに強い影響を及ぼすのも、これらの性質が起因しているのではないか?
そして、神の御名が強い霊妙さを私たちに与えて下さるのは、つまり霊妙さの頂点である神様から、最高のそれをいただけるので、神様に近付けるからなのではないか?と、思いました。
そしてこの時、決意しました。
私は、食事はオーガニック等、全般的に気をつけてまいりましたが、添加物の入らないという逃げを理由に、ごくわずかでも、お菓子を食べる習慣が辞められずにおりました。
しかし、この時、只今から、辞めます。辞めました。
腹八分で、心身共に軽く、霊性修行に精進させていただきます。
私は、心底、神様と合一、解脱を求めているのですから。
私は、今日一つ大きな変容をお許しいただけました。
サイババ様、お導きいただき、ありがとうございます。
神奈川:女性
| 昨日の疑問/質問 「ものの名前、神の御名」
霊妙とは?不思議なこと?
スズメバチに襲撃されたとき、神の御名を叫んでも状況は、変わらず神が現れる話しは、美化された話しに過ぎないと思っていました。スズメバチは、ヘルメットの中にモゾモゾ入り込み針を刺しています。もうダメだと思い、首を手で覆い神の御名を唱え続け岸壁の中間で、うずくまるだけでした。
いつの間にか,スズメバチ達は、大人しくなり上方空中で黒い塊で浮いていました。襲ってこない。
ヘリは来ては、様子観察して帰って、また違うヘリが来て救助することなく帰って行きました。
岸壁下に救助隊が上がって来られ、救助されると思いました。
下の方でおーい,おーい、おーいと叫ぶだけでした。きっと救助できなと思いました。
そのとき壮絶な痛みは消え、スズメバチも静かに空中に黒い塊で浮いていました。自分で降りようとロープがひっかかっている所まで、自己ビレイ(自己確保)しトラーバースしてロープを改修し懸垂下降し救助隊の所に降りました。
救助隊員からよく降りてきた凄いと、するとまた壮絶な激痛でした。
タンカーに乗せられヘリで救助できる山の上に総勢5〜6人で引き上げ大変そうでした。
懸垂下降時スズメバチは空中に黒い塊で浮かんだままで、突然痛みを感じなくなりアドレナリンが出たのか?その強い霊妙だったのだろうか?不思議に思い返しています。
神は現れなかったけれど、神の御名を唱え続け携帯電話よりも早く神に聞き届けられ、不可思議な霊妙な神の強力な愛の力が働いたのだろうかと思い返しています。
東日本大地震のとき、帰宅困難となり主人に立川に迎えに来てと電話するも渋滞で前に進めない時間かかりそうだ。携帯電話は繋がらなくなりました。カフェで時間をやり過ごしていました。一緒にいた仲間は昭和記念公園避難所に向かいました。自分は立川駅に行こうとお店から出て歩きました。電話繋がらず場所を約束していないのに、歩いて直ぐ主人が渋滞の車から叫んでいました。
突然バッタリ会ったのです。
神の御名の霊妙の力と言うのでしょうか?もしも昭和記念公園に向かっていたらと思うと、本当に不思議に思います。
神の御名に心から感謝いたします。
神奈川:女性
「普通の物質的なものの名前、たとえば、『火事!』、『蛇!』、『レモネード!』などと耳にしたときですら、それらは私たちの心(マインド)に強い反応を引き起こします。そうであれば、宇宙の創造主であり至高の主、サルヴェーシュワラの御名を声に出したとき、あるいは聞いたとき、どれほど強く霊妙な影響がもたらされることでしょう!」を読んで、なるほどーと思いました。
確かに私達はあらゆる名前に反応します。
怖いと思っている人の名前を聞いただけで震えてしまいます。
神の御名がどれだけすごい影響をもたらすのか、というのがよくわかりました。
東京:女性
人生は木のようなものであり、そこでのさまざまな心の歪曲(ヴィカーラ)、すなわち、怒りや貪欲(どんよく)や嫉妬(しっと)といった激情は私たちのハートに群がって汚し平安と歓喜を奪っている鳥たちである、というのが真理です。
愛とリズムと共に神の御名を唱えなさい。『ラーマ、クリシュナ、ゴ(二三)ーヴィンダ、ナ(二四)ーラーヤナ』と。
私たちの心(マインド)に巣食い、人生を苦しめている邪悪な歪曲(ヴィカーラ)という鳥たちは、恐怖に襲われ飛び去っていくでしょう。
普通の物質的なものの名前、たとえば、『火事!』、『蛇!』、『レモネード!』などと耳にしたときですら、それらは私たちの心(マインド)に強い反応を引き起こします。
そうであれば、宇宙の創造主であり至高の主、サルヴェーシュワラの御名を声に出したとき、あるいは聞いたとき、どれほど強く霊妙な影響がもたらされることでしょう!
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」P.80
皆さんのお便りから、たくさんの体験から、多くの学びをいただくことが出来て、日々新たな発見や勇気、気付き、力をいただけております。
何と素晴らしいことかと、心底サイババ様、事務局の方々に、感謝申し上げます。
本日のサイババ様の御言葉にある、チャイタニヤ聖人の、神様への全幅の信頼を超えた、
信愛を学ばせていただきました。情景が浮かぶ程の、強烈な印象を覚えました。
永遠に忘れることない御言葉の一つになりました。
ありがとうございました。
神奈川:女性
クライミング中に,脊髄硬膜血腫になりギックリ腰かと思っていました。
歩くのもままならず救急車要請し病院受診。
陣痛のような激通でした。激痛の中、神の御名を呟いていました。
医師からは,自力排尿,排便ができない後遺症が残るかもしれないと告げられました。
CT検査、丸い暗い中入るとき暗闇に死への入り口はこのような感じかなと思いました。
神の御名を呟いていました。
二日間ベッド上安静で、2週間の入院で、後遺症は残りませんでした。
入院中、神の御名を呟いていました。
ソロクライミング中に、大量のスズメバチに襲撃され言葉にならない激痛に神の御名を叫び続けていました。
県警の緊急特殊ヘリで、病院に搬送していただきました。医師からよく生きていたね。と告げられました。
刺された後を数えると見えるだけで80ヶ所、見えない部分,首やヘルメットを被っていた首周り耳も入れると100ヶ所くらい刺されたのでは思われます。
顔面腫れ目が開けにくく隙間から見て生活しました。
クライミング中に脳出血になり立って歩けず県警の緊急ヘリで病院に搬送させていただきました。
救助中は、意識があり神の御名を呟いていました。
ヘリに吊り上げられるまで、覚えてました。
その後の記憶なく、医師から家族に、今夜大出血が起きたら危険ですと告げられたようです。
いつ如何なるときも、とにかく神の御名をつぶやいていました。
激痛や不安時、神の御名に救われました。
神の御名を知らなかったらゾッとします。
東日本大地震のときも、6階の古いビルにいて、大きくグワン、グワン横揺れ、神の御名を呟きながら階段を降りました。
外に出てから空を見上げ神の御名を心つぶやいていました。
このように、神の御名のおかげで本当に救われております。
神の御名を、唱えられることに感謝いたしております。
ありがとうございます。
神奈川:女性
あるとき、チャイタニヤが通りでクリシュナ神の栄光を歌っていると、
チャイタニヤの評判が高まっているのを妬んだ何人かの悪党が、チャイタニヤの手からターラムをひったくりました。
それからは、チャイタニヤは神の御名を歌いながら太鼓をたたくようになりました。
ところが、その太鼓さえも悪党たちに壊されてしまいました。
けれどもチャイタニヤは少しもうろたえませんでした。
チャイタニヤは、神の御名を歌うのに楽器を使う必要はないのだと思い、
今度は手をたたきながらバジャンを歌いはじめました。
そうなると、悪党たちは無情にもチャイタニヤを袋だたきにしました。
チャイタニヤの体からどくどくと血が流れ出しました。
それでも、チャイタニヤは神の御名を歌い続けました。
ところが、チャイタニヤの母親がやって来てその姿を見た時には、体には一滴の血も付いていませんでした。
血痕はすべて奇跡的に消えてなくなっていたのです。
それは、チャイタニヤが自分の体は神のものであると固く信じ、体に一切執着を持っていなかったからでした。
2001年5月6日
私はよく、ちょっとしたシンクロを体験して、地味にひとりで楽しんでいるのですが、その中のひとつ、先日体験したことをシェアします。
数日前、料理をしていて、包丁で深く指を切ってしまい、血がボトボトでました。あわてて絆創膏を貼ったのですが、包丁はもう長いこと使っているのに、こんなふうに指を切ったのは、生まれて始めてでした。でも、今までのたくさん助けられてきた経験と、たまたま、側にいた友人が、絆創膏を貼るのを手伝ってくれたのもあったのか、ババが守ってくれるから大丈夫との安心感がありました。次の日、サイババ書店で期間限定のセールだったので購入した、「神は偏在」という本を読んでいると、40ページの1行目に、「(ババが)大阪の男性の指のケガを心配して、ヴィブーティを指につけるよう指示されました。」とありました。それで、すぐに傷口にヴィブーティを付けたのですが、よくよく考えると、まさに大阪の男性だった私の友人も、私より少し前に、指を深く切ったという話をしていたのを思い出して、友人にも、絆創膏の上から(友人は帰依者じゃないので、直接傷口に塗るのは心配だったため)塗ってもらいました。
その翌日、まだ、完全ではないものの、絆創膏をとってみると、私の傷口はふさがっていました。友人はというと、もう絆創膏を外してもいいくらいに、傷が回復していました。
後になって思ったのですが、よくよく考えると本の中では、大阪の「男性」となっていたので、ババが真に心配していたのは、私の傷じゃなくて、友人の傷の方だったのじゃないかな。私は、ババのことを完全に信頼しているので、ババが私を守ってくださるのはそんなに難しくないけど、私の友人は、ババのことを完全に信頼できていないので、ヴィブーティを塗るというような行為がないと、助けられなかったのかもしれないです。
ババに一歩だけでも、近づく必要があったのかもしれませんね。
大阪:女性
| 神の御名を唱えるとは、自分にとって何なのか?
スワミに向かって「I love you!」
でも直後に「いいえ、光です」と声が聞こえて来ました。
確かに霊性の道を照らし、導き、闇から救い、真理の光なので知恵を与えてくれます。
| いつでも神の御名を意識の一番上に持ってくるには、
私は、とある資格取得のために介護施設で2年間の実習を受けていたのですが、そこでたくさんの死を学ばせていただきました。自殺の発見、消えゆく命の心臓マッサージ、蘇生、エンゼルケア、死化粧。書ききれない程の経験をさせていただいたと思っています。消えゆく命を助けられない現実がつらくて、あの頃は家に帰ってよく泣いていました。
そして今、思うのは、体から命が離れるその瞬間まで自分のために頑張ってくれる人々は、いる。
でもその先のことは神にお任せするしかないのだと分かりました。日常の痛み・苦しみ・悲しみにも意味があって、神が自分に与えてくれているのかもしれないと思うと、愛しいと思えるのではないでしょうか?
いつも色んな課題をありがとうございます。
岡山:女性
さて、サイババ様の御言葉を有り難くいただきました。
「外に向いている五感を引き付け、影響を及ぼすものから、五感を遮断しておきなさい。
代わりに、神の御名と御名の甘さや美しさに集中しなさい。
万物への愛、執着がないことといった神性の特質を育みなさい。」
この一節が、今日からの私のナーマスマラナを行う際に、思いを馳せる事柄に加わりました。
考えながらさせていただくのは、集中しても時間のかかることではありますが、丁寧にさせていただきます。
とても大きな学びをいただきました。
ありがとうございました。
神奈川:女性
今、最初の一歩、言い換えるなら、万物に宿る者である主なる神の御名を繰り返すことから始めなさい。
それはあなたを、さらなる歩みへと導いてくれるでしょう。
ゴールにたどり着くまで前進し続けなさい。
外に向いている五感を引き付け、影響を及ぼすものから、五感を遮断しておきなさい。
代わりに、神の御名と御名の甘さや美しさに集中しなさい。
万物への愛、執着がないことといった神性の特質を育みなさい。
そうすれば、『シヴォーハム』〔私はシヴァ神である〕、あるいは、『私は純粋なサット・チット・アーナンダ〔絶対実在・純粋意識・至福〕である』と断言する資格が与えられます。
しかし、神の恩寵があれば、それを断言する必要など一切ありません。
なぜなら、そのとき、あなたの中に『私(アハム)』という感覚はなくなっているからです
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」 P.83
| いつでも神の御名を意識の一番上に持ってくるには、
災害時や事故のとき、病気や痛み辛いとき、苦しいとき喜びも、いかなるとき神のみ思います。
日々どのようにしたら良いのか、考えたことありませんでした。全てに神を思っています。宇宙や自然と全てに神さまの永遠の愛に感謝しております。
神奈川:女性
| いつでも神の御名を意識の一番上に持ってくるには、
…私は、目覚めてから眠りにつくその時まで、心がけていることがあります。習い性になるまで、継続すると決意しています。
それは、私の中に神様がいらっしゃる、私はすべての心と言葉と行いを神様にご覧いただいている、すべてのことを、一番に、神様に心で話しかける、ということです。
これが自分自身の中に確かに定着した暁には、死に際にも、意識の一番上に、神様がいらっしゃるのではないか?と、思うのです。
ありがとうございました。
神奈川:女性
あなた方は、「プラーナの神話によると、どれほど略式であっても死ぬ瞬間に神の御名を思い出せばそれで十分だということを聞きました」と言うかもしれません。
しかし、もう何年も御名を唱えていないというのであれば、その時になって御名を思い起こすのは一仕事です。
いつでも自分が望む時に神の御名を意識の一番上に持ってくることを今から身に付けておかなければ、神の御名は、死に際に込み上げてくる感情と押し寄せてくる思考の中に隠れてしまうでしょう。
1960年11月23日
「いつでも自分が望む時に神の御名を意識の一番上に持ってくる」
例えば死に際に神を望むことができるのか。
人生の中でも、仕事や生活、人間関係、健康面で、とてもつらいその渦中に巻き込まれている最中に、甘い神の御名を思い出すことはできるのだろうか。
質問:いつでも神の御名を意識の一番上に持ってくるには、日々どのようにしたらよいのでしょうか。体験やアイデアをお待ちしております。
人生は巡礼の旅であり、
人は、でこぼこした刺(とげ)だらけの道の上を足を引きずりながら歩きます。
唇に神の御名があれば喉(のど)に渇きはなく、
心(ハート)に神の御姿があれば疲れを感じることもありません。
この神聖なる道連れは、希望と信頼をもって旅をするよう人を鼓舞します。
神は呼べば届くところにいる、
神はつねに近くにおり
決して自分のもとに来るのに長い時間がかかることはないという気づきは、
手足に力を授け、目に勇気を与えます。
愛(プレーマ)を込めて御名を唱え、心に御姿を焼き付けなさい。
御名と御姿はあなたの心(ハート)の奥底で光を放つランプです。
そのランプは内側と外側の闇を払います。
内なる『平安』と外への『愛』
――これが、絶え間ないナーマスマラナに没頭している者のしるしです。
書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」P.25
(9月7日の御言葉)
甘く穏やかな言葉がどんな状況にでも適切でないこともあると思う。例えば、子供が熱いやかんを触ろうとした時に、「こうちゃん、そのやかんに触ってはだめですよ」というふうに優しく諭している間に、その子供は大やけどをしてしまう。そういう場合は、「ダメ!」とパチンと手を叩くぐらいしないと、子供はわからない。大人でも、昔、建築関係で働いている人が、「怒りたくないけど、危ないからな」と言っていたことがある。間違えると命にもかかわるような仕事だ。「それは仕方ないよ」と私も思わず言った。私は、その言い方よりも、その人の日ごろの態度を見て、人は言うことを聞いたり聞かなかったりするものだと思う。日ごろの態度に愛が感じられたら、自然とその人の言うことは耳に心に入ってくるものだと思う。ただ、初対面の人は、お互いのことを良く分かっていないので、穏やかに話した方が、トラブルは避けられる。道端で急にいちゃもんをつけてくる人なんかに、まともに怒ったら、逆ギレされて殴られかねない。私の場合、本当に親しい人に大切なことを伝えたい場合、怒る場合もあるが、その場合、怒らない方がいいのは分かっているけど、冷静でいられないので、そこで黙ってコミュニケーションを取らない選択より、理解し合いたい気持ちが勝って言ってしまう。だけど、たいがいは愛から来た言葉なので、お互いが冷静になった時には、理解しあえている。だだ、怒ってしまったのはゴメンね、と埋め合わせはしている。あまり優しく穏やかにを気にしすぎて、コミュニケーション不足になっては、いい人間関係は築けない。それよりも愛があれば、お互いケンカして、許し合って、している方が、よっぽど深い関係が築けると思う。ケンカしても仲直りできる、と思える人間関係の方が、よほど安心感があると私は思います。
大阪:女性
さて、9/6にいただきました通信では、参加者の皆さんからの、気付きや変化を、学ばせていただきました。
サイババ様は、私達一人ひとりに相応しい事象を表して下さり、各々に相応しい道を与えて下さるのだな、と感激しております。
また、苦しみや悲しみのある日も、サイババ様を見つめて歩まれる直向きな姿勢も、文面から想像させていただき、胸が熱くなりました。
今日からも、改めてサットサングの皆さんと共に取り組める、この幸せを有り難く、精進させていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
自分の舌の上に置いた御名の甘さに浸りなさい。
そうすれば、あなたの言葉も甘く穏やかになるでしょう。
あなたの言葉によって、あなたは裁かれるのです。
1964年7月24日
(9月5日の御言葉)
この御教えの最初の一文、「どのような活動を始めるときも、いつも他の人の幸福についても気にかけていなさい。」しか実践できていませんが、たくさん恩寵をいただいていると感じます。優しいババの愛を感じます。
このことでは、プラシャンティ・ニラヤムにいた時のある出来事をいつも思うのです。
マンディールでババのダルシャンを待っていた時の話です。1時間くらい待っていたでしょうか。急にお手洗いに行きたくなりました。でも、もうすぐババが出てくるから我慢我慢、と思っていたのですが、耐えられなくなって、マンディールを出ました。すると、なにやら辺りの雰囲気がザワザワしています。見ると、ちょうどババが車に乗って、マンディールを出てきたところでした。私はすかさず道の端に走って行って、ババをすぐそばに見ることができたのです。そのタイミングでババが出てきたと言うことは、その時のマンディール内でのダルシャンは中止になったのに、私はババのカーダルシャンをいただくことができたのです。
この時の教訓は、我慢しすぎない方が、恩寵がいただけるのかな、ということです。我慢しすぎるということも、裏を返せば、ある種の執着があるからかもしれません。執着をなくせば、楽になるのかもしれません。
大阪:女性
(9月5日の疑問/質問)
…私は、何と言っても、神様を黙想する時間が、圧倒的に多くなりました。
そして、喜怒哀楽の思いが起こる、あるいは起きそうになると、ほとんどの機会に、サイババ様の御名と御姿が心に浮かびます。すると、冷静にこの思いは自分の勝手?神様が喜ばれる?悲しまれる?と、判別し、心を平安に保つ訓練をしています。
また、幸せの御名99プロジェクト参加前よりもさらに、神様に近付きたい!と、強く願う自分に変化している、変容していることに、気付かせていただきました。
大きな感謝と共に、きっと、サイババ様がこのプロジェクト、ナーマスマラナを通して、オーガニゼーションの方々、サットサングの方々との交流を通して、たくさんの学びや、私自身の変容、再構築を誘って下さっていることなのではないか?と、先渡しのその恩寵に、どうか応えたい!と、奮起させていただいているところです。
ありがとうございます。
そして、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
神奈川:女性
私は朝晩のお祈りはしていましたが、神様の御名だけを唱え続けるのは難しいと思っていたのでナーマスマラナはしたことがありませんでした。
でもこの度の機会にやってみたいと思い参加させていただきました。
それでも゙最初のうちは時間を計って何回唱えたかが気になって、御名の甘さや、御姿を思い浮かべることができないことに気がついて、これでは意味が無いと思い、どうしたら良いか考えていたら、ふとバジャンのメロディーが浮かんで、歌詞を歌うように御名を゙唱えることができたのです。
私はバジャンが好きでいつも気がつくと歌っていたので、いろいろなメロディーに御名を合わせていたら、いくらでも唱えられてしまいます。
御姿も思い浮びますし、何より、神様をとても身近に感じられるようになりました。
それに、最近は何か用事をしていてもとても事がスムーズに運び、より良い結果に結びついていると感じます。
ナーマスマラナには、神様と私をグッと近づけてくださる力が有るように思えます。
(9月5日の疑問/質問)
変化,一行でも嬉しい。送ってくださいとありましたので、つぶやきお送りさせていただきます。
昨夜、Tシャツと短パンで寝たせいか朝、喉が痛いと思ったら微熱でした。最近微熱で、体が浄化されているのかなあと一日中寝ていました。朝起きて、御名を唱えどこも痛くないけど、いくらでも寝られました。目が覚め起きて、御名を唱えてまたぐっすり寝て、起きてまた御名を唱えまたぐっすり寝られて体すっきり幸せです。
朝,目覚めに夢を見ました。
シバシャンボー♪シャンボー♪シバシャンボーマハーデーヴァー♪のバジャンを歌い練習している夢でした。勿論自分は、そのようなシヴァバジャンをリードで歌ったことも歌おうと思ったこともないです。不思議に思いました。神の御名を唱えるようになり寝ている間、神の世界に行ってるのかなあと嬉しく思いました。
神奈川:女性
| 例えば、どの様に唱えることでしょうか。
前回の質問の「どのように唱えるか」に関してですが、日中に唱える時間が取れたら「ありがたい」。夜に唱名する際は「今日も生きて唱えることができる、ありがたい」と言う感じで、まず感謝の念から唱えています。
感謝→唱名→神との一体感→自分の中にあふれる愛や歓喜を外へ外へと流れ出すといった感じです。
ただ、日によって神の御名がゆっくりだったり早くなったりしているのが自分で気になっています(時間はあるので単に自分のその日のメンタル??)特に決まりがなければ速さは気にしないようにします。
岡山:女性
唱名を始めてからの変化ですが、感覚的なパーソナルスペースが広くなったようで、他人のネガティブな思考に引っ張られなくなっています。
あとは食事内容がガラッと変わったので身体がとっても軽いのと、家族で宗教の話をする時間が増えました。
悪い変化も探したのですが、悪い変化は本当に何も無いです。 いつもありがとうございます。
岡山:女性
どのような活動を始めるときも、いつも他の人の幸福についても気にかけていなさい。
利己的な生活を送ってはなりません。
個人の利益のみでなく、全体の利益を考慮しなさい。
多くの場合、ジャパや瞑想といった霊性修行は利己的な動機でなされます。
それよりは、神の御名を唱えて、社会に奉仕したほうがよいのです。
それは、個人と社会全体に利益をもたらすことになります。
これが本当のサーダナ(霊性修行)です。
誰に奉仕をするときにも、私は神に奉仕をしているのだという気持ちで奉仕しなさい。
1999年11月21日
| 例えば、どの様に唱えることでしょうか。
とにかく、最初から上手に唱えることを考えるのではなく、どんな唱え方でもいいので、心から神の救いを求めて、求めて求め続けることだと思います。そうすれば、必ず救いが来て、目には見えない神への理解が深まると思います。夜明け前が一番暗いといいます。暗くなれば暗くなるほど、明るい夜明けが近づいている証拠です。一度、朝がくれば、暗くなってもまた朝がくることが分かるので、夜も怖くなくなります。心から求め続けることだと思います。
大阪:女性
| 例えば、どの様に唱えることでしょうか。
⇒私は、サイババ様の御言葉の中にお導きいただきました、
①すべての御名と御姿は、唯一なる至高神を指していること。
②すべての宗教、すべての国、すべての信仰における神の御名の間に差異を認めないこと。
を念頭において、甘さと美しさ、芳香を反芻させていただきながら唱えること。
今はこのステップで、瞑想しながら、永遠に忘れることのないように願い、自分自身の魂に刻印する思いで唱えさせていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
| 例えば、どの様に唱えることでしょうか。
神は遍在であり私たちの良心にも宿られます。
明確な指示や文章がない場合、一番いい方法を神が我々のお唱えの中でその人独自のものを示してくださると思います。我々の中にも神はいるのですから、その人の性質・境遇・経験などから同じものはないかもしれませんが、求めている神は同一なので届く成果は共通と考えます。音楽や料理は素晴らしい音楽やおいしい料理はありますが、クラシックとロック、民族音楽は違うし、和洋中インドそれぞれ素晴らしいものがありますが、インド料理のスパイスが受け入れられない人もいるでしょう。同じインド料理でもスパイスが少なめのものやあるいは和食が合う人もいます。神はそれらを嘉し給うのではないでしょうか。
千葉:男性
すべてのダルマは一つの神をもち、すべての心(ハート)は同一の神により動機づけられ、すべての御名と御姿は唯一なる至高神を指していることを知りなさい。
一体性、そして、すべての宗教、すべての国、すべての信仰における神の御名の間に差異を認めない姿勢、すなわち『エーカバーヴァ(一つであるという姿勢)』を育みなさい。
これは私があなたたちのために携えてきた愛のメッセージであり、私があなたたちに理解して従ってほしいことです。このような愛を広げ、このような愛に生きなさい。
もし、この愛を育んで深く永遠に自分の中に留めたいなら、神の御名を繰り返し唱える霊性修行、神の愛と神の慈悲、神の威厳と神の栄光を思い起こす霊性修行をしなければなりません
書籍:「ナーマスマラナ、神の名前の不思議な力」P.15
「神の愛と神の慈悲、神の威厳と神の栄光を思い起こす霊性修行」
として
「神の御名を繰り返し唱える霊性修行」
を示されています。
例えば、どの様に唱えることでしょうか。
今回の「手放すこと」に関しての私の実感ですが、執着がないものに関しては手放すことは容易です。例えばこれから山に籠って生きていくと仮定した時、スマホ、服、本などの物質的なものは執着なく捨て去ることができます。
ところが、心の中に既にある愛着や悲しみは手放すのが難しい…と実感しております。
自分自身が生み出しているその「難しさ」。
今はそれを見つめながら生きている事実に感謝しつつ、もがいていけたらと考えています。
岡山:女性
サイババ様の御言葉を有り難く学ばせていただきました。
この御言葉をいただくまでの私は、毎日のナーマスマラナで、無心になって、御名と御姿を心に思い描くことで精一杯でした。
しかし、「心は、御名に付随する甘さを想うべきであり、御名が思い起こさせる御姿の美しさ、御名が漂わせる芳香を反芻すべきです。」とお導きいただきました。
甘さと美しさ、芳香を反芻すべきと習えたことに、私の心に歓喜が湧き起こりました。即、実践してみました。
一回一回に時間がかかるように感じられましたが、とても深く神様に繋がれるような感覚を覚えました。
明日以降も、このように実践を継続させていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
神の御名を唱え神のみを求め続けることにより周りへの執着は自然消滅し【手放すこと】【自分と万物との同一性】自然や宇宙との一体性となり、すなわち究極神と自分が存在している状態となり神の永遠の神聖な愛が残り神と神秘的合一されると思われます。
神の永遠の愛に感謝いたします。
神奈川:女性
御名の霊性修行(ナーマ・サーダナ)では、まず第一に、御名と御姿が共にあることです。
御名と御姿は一枚のコインの表と裏です。
御名を唱えると、その御名で呼ばれる神が目の前に思い浮かび、その御名で呼ばれる神を思い浮かべると、御名が唇に跳んできます。
御名から心が離れないようにしなければなりません。
心は、御名に付随する甘さを想うべきであり、御名が思い起こさせる御姿の美しさ、御名が漂わせる芳香を反芻すべきです。
書籍「ナーマスマラナ / 神の名前の不思議な力」 P.51
先週、疲れてソファーでぐったりしていたとき、
ぐったりしたまま御名を心の中で数回唱えたら、
にわかに、もやが晴れたかのように、
脳内の不純物が取り除かれたかのように、頭がすっきりしました。
これが御名の力なのか! と、その偉大さを初めて実感認識しました。
普段、私たちは気づかないけれど、おそらく、
御名を唱えるたびに、何らかの影響が及ぼされてることと思います。
貴重な体験をさせていただき
このプロジェクトに感謝いたします。
東京:女性
ここに参加されている皆様の姿も何も見えないのですが、多くの方が参加されて同じ方向に向かっているエネルギーというのは確実に感じられます。
そこに乗っかって、自分も良い方向へ連れて行ってもらってるような気がします。
このプロジェクトが始まってから、本当に神の御名を以前より唱えられるようになりました。
何も難しいことはないのに、自分の意識の問題ですね。
神の御名が、というより神様が近くにいて下さる多幸感に感謝です。
東京:女性
私達の個我がまとう器、名前や体に粘着する欲望やプライド、怖れといった要素を手放すと、ちっぽけな個我がより大いなる神我と同化し始め、一般的には奇跡と呼ばれるようなシンクロニシティが日常化し、次第に歓喜が満ち溢れていくのかもしれません。
自我を溶かし、我を手放すことによって、チーム・デーヴァの一員となるような感覚でしょうか?精妙な霊性において過去の栄光や社会的な功績はあまり意味をなさず、日々、毎瞬、個我が肉体を去る最後の瞬間まで、自我の喜びを取るか、神我を優先するかの選択を、促されているように思います。
「自分と万物との同一性」に達するため、どのようにしたら「手放すこと」ができるのでしょうか?
という質問が提示されたちょうど前日に、マンディール・プログラムで読み上げられた一つの美しい詩を、みなさんと分かち合いたいと思います。
沈黙という贈り物のために 私のつたない言葉を 汝に捧げます
無垢という贈り物のために 私のささやかな学びを 汝に捧げます
無条件の愛という贈り物のために 偏った判断をする心を 汝に捧げます
平静という贈り物のために 落ち着きのない行動を 汝に捧げます
満ち足りた思いという贈り物のために 尽きることのない欲望を 汝に捧げます
汝の影で生きるという贈り物のために あらゆる名誉や名声を 汝に捧げます
汝の微笑みという贈り物のために 私の取るに足らない快楽をすべて 汝に捧げます
汝に属するという かけがえのない贈り物のために 私のすべてを 汝に捧げます
すべての物事はつかの間のものだとの理解が必要ですが、それは人生で何かを失ったり、手に入れたり、を何度も経験していくうちに、自然と分かってくるものではないでしょうか。でも、そのうたかたの世界でも、確かなものがあって、それが神聖な愛というものだと思います。人は完璧じゃないので、楽しい時もあれば、傷つけ合うこともあります。その中で、神の御教えに沿って、善き人であり続ければ、自然と良い人間関係が生まれてきて、ある程度の年をとれば、自分が本当に欲しかったのは、良い人間関係だけだということがわかり、それ以外のことは、単なるエンターテインメントで、それほど重要ではなくなってきます。遊園地は楽しいですが、遊び終わったら必ず家に帰るし、遊園地のアトラクションを持って帰りたいとは思いませんよね。人生もそんなふうに、あー、楽しかったって思えれば、いいんじゃないかな。人生を楽しむ秘訣は、Love All Serve All。一緒にこのパズルを解いていきましょう。簡単じゃないですよ。だから面白い!
大阪:女性
さて、本日のご質問です。
…私は、朝の早い時間に、アートマ原理、不二一元論(アドヴァイダ)、ブラフマー原理を強く思い出すことから始めています。
「手放すこと」とは、神様との合一、解脱を目標とする以外のすべてを、神様からお与えいただく以外を、過剰に求めないことがスタートだと思い、走り始めております。果てしない旅路かもしれませんが、そのゴールには、きっと手放すことが出来た自分自身がいるものと、信じております。
「手放すこと」の障害は?
…世俗に生きて活動する中にあっても、他の人々から、唯物的価値を持たない?世捨て人のように思われたり、見られたりしてしまうかもしれません。
しかしそれは、神様を求め、愛を与えることの素晴らしさの伝播に繋がることの見本に、自分自身がなることなのではないか?と、希望を持って歩んでおります。
発言するにはお恥ずかしいレベルかもしれませんが、サイババ様に、そしてサットサングの皆様に、私の思いをお聞きいただきたく、お願い申し上げます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
御名と御姿を崇めることは、ヴェーダーンタの基本的な教え〔不二一元論〕と矛盾するといえるのか。多分究極にはそうなのでしょう。よってナーマスマラナは妥当ではないのか。哲学者シャンカラは祭祀の意味を否定します。これは祭祀そのものが不要なのか、問題なのか、あるいは祭祀がある特別な条件でしか意味のないのかー直感的にシャンカラほどのひとが嘘をいうとは思えません。しかし祭祀は多く行われています。愛のない祭祀、形式的なだけの祭祀は意味はないでしょうが、本当に神へのバクティに満ちた祭祀は有益だと思いますし、あるいはシャンカラの水準に達したひとは祭祀が不要ということも考えられます。「自分と万物との同一性、万物と自分との同一性を発見しないかぎり、人は波立ちのない静けさ、すなわち揺るぎない光輝を得ることはできません。」とはむしろ手放すという感覚よりも本来的には同一なのに、なぜ、あなたは幻想に拘るのですかという意味かもしれません。自分の外に神を求めるのではなく、自分の内側に神を求めれば本来的には解決する問題なのでしょう、幻想は本来ないのに、正気にもどれば、幻想は消えます。ただ、矛盾のように見えますがそのような幻想を手放すために、シャンカラほどの水準でない我々はナーマスマラナをする意義はあるのではないかと思います。
たぶん難しいので扱いはお任せします。担当者の方への問題提起とするのが妥当かもしれません。当然自分がその水準にはいませんが、どなたかへの意味のあるお話しかもしれないので。
千葉:男性
御名と御姿を崇めることは、ヴェーダーンタの基本的な教え〔不二一元論〕に反しています。
なぜなら、人は、消えゆくもの、束の間のもの、表面的なものを気にかけないよう自分を教育しなければならないからです。
自分と万物との同一性、万物と自分との同一性を発見しないかぎり、人は波立ちのない静けさ、すなわち揺るぎない光輝を得ることはできません。
ティヤーゲーナィケー アムルタットワマーナシュフ
〔手放すことによってのみ、不死は得られる〕
手放しなさい、幻想である外界への幻想を手放しなさい。
手放しなさい、あなたが「与える者・与える物・与えること」のない段階、「始まり・継続・終わり」のない段階に到達するまで。
1971年1月14日
最近の変化のご報告をさせていただきます。
唱名を始めてから、あんなに大好きだった「食べること」への興味が薄れ「体によい物を食べ、過食をしない」に変化しました。
仕事をしているとどうしても外食でお手軽に済ませたり、夜にお菓子を食べたりしがちだったのですが、今はなくなりました。
すごく体が軽く感じるので、素晴らしい恩恵をいただいたと感じています。
私事で失礼しました。皆さまの体験談などが、自分の励みになっております。
皆さま本当にありがとうございます。
さて、サイババ様の御言葉、
「神の御名を唱えることによって、どんな困難な仕事でも成し遂げることができます。」
私は、この端的な表現をそのまま信じ切って、ナーマスマラナを継続させていただきます。
毎日必ずいただける、神様をより近くに感じられる思いや、数々の気付き、神様に近づくこと以外の、喜びと悲しみ、賞賛と非難、その他相反することのすべての体験をマーヤーとして、自分自身に取り込まない努力をします。
お便りで学ばせていただく多くの方々と同じく、悩みながらも、進まれていることを想像し、私も勇気を持って精進させていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
ババ「困難を歓迎し、それに立ち向かう機会、霊性の道を前に向かって進む好機をしっかりつかむ賢明な魂であれ」「私があなたの手助けをしましょう。問題はあなたが思っているほど大きなものではない。少しの忍耐力と愛と理解によって解決されないものはありません。」
ババの言葉の引用は皆さんのためになるかもしれません。
千葉:男性
さて、サイババ様と、サットサングの皆様に、報告させていただきたいことがあります。
それは、昨日8/30朝、目覚めた時から突然なのですが、バジャンが聴きたくて、聴きたくて、仕方がない衝動に駆られたのです。
私は咄嗟に、スマホで、オーガニゼーションの公式YouTubeチャンネルからサイバジャンのジュークボックス、krishna NO.1を視聴しながら、ストレッチとヨガをしました。そして、昼食時、そして昼食後の後片付けにもかけていました。
今日も、同じくさせていただきました。
とても不思議です。
私は、毎日必ず、ガヤトリー・マントラを唱え、数種類のバジャンは、歌わせていただいておりますが、バジャンを聴きたい、聴いていたい、と思ったのは、昨日からでした。
明日からも、是非継続させていただきます。
ありがとうございました。
神奈川:女性
神の御名を唱える。
カリユガの時代、最善で最良で最短で最強のサーダナ。
だからこそ、誰でもできる事ではないと知ってはいましたが、
思っていた以上に、私にとって大きな霊性修行になっています。
御名を唱えることで、エゴや執着が剥がされていきます。
そこで私は激しく抵抗をしているのでしょう。
なかなかつらい...。
生きていて今までにない、心がつらいことが次々と起きる。
だけれども、こうしてみんなと共にやっているという、
支えがあるから今こうしてかろうじて、自分を保っている感じがしています。
スワミ、みなさん、こころより感謝しています。
スワミ、このような状況を与えてくださり、ありがとうございます。
東京:男性