御名と御姿を崇めることは、ヴェーダーンタの基本的な教え〔不二一元論〕と矛盾するといえるのか。多分究極にはそうなのでしょう。よってナーマスマラナは妥当ではないのか。哲学者シャンカラは祭祀の意味を否定します。これは祭祀そのものが不要なのか、問題なのか、あるいは祭祀がある特別な条件でしか意味のないのかー直感的にシャンカラほどのひとが嘘をいうとは思えません。しかし祭祀は多く行われています。愛のない祭祀、形式的なだけの祭祀は意味はないでしょうが、本当に神へのバクティに満ちた祭祀は有益だと思いますし、あるいはシャンカラの水準に達したひとは祭祀が不要ということも考えられます。「自分と万物との同一性、万物と自分との同一性を発見しないかぎり、人は波立ちのない静けさ、すなわち揺るぎない光輝を得ることはできません。」とはむしろ手放すという感覚よりも本来的には同一なのに、なぜ、あなたは幻想に拘るのですかという意味かもしれません。自分の外に神を求めるのではなく、自分の内側に神を求めれば本来的には解決する問題なのでしょう、幻想は本来ないのに、正気にもどれば、幻想は消えます。ただ、矛盾のように見えますがそのような幻想を手放すために、シャンカラほどの水準でない我々はナーマスマラナをする意義はあるのではないかと思います。
たぶん難しいので扱いはお任せします。担当者の方への問題提起とするのが妥当かもしれません。当然自分がその水準にはいませんが、どなたかへの意味のあるお話しかもしれないので。
千葉:男性