2024年9月25日水曜日

お便り145

 今日のお言葉はなかなか難解な問題を孕んでいます。日本の仏教でも密教は多くの神がおり、そのサンスクリットをお唱えしていましたが、これはどうなのかということです。日本の神道は非常に寛容で、サイババの教えがきちんと伝わるのはこの美点が影響していると思います。仏教も日本の神の教えをさらに深めたいという祖先の英知だと思います。(歴史的には仏教の日本での受容は一時的なかなりの混乱をまねきましたが。)基本的に今いくつかの御名と御姿に関しては「神の御名と御姿を決めては捨てる」という態度は日本人はとらず、いずれも大切に扱うという考えです。わたしも、日本の仏教の影響下では今の段階では複数のお名前をお唱えすることは許されるのではないかと思います。サイババも仏教徒はさらに仏教徒らしくというのが教えなので、「仏道」を真に実践するという観点の「ナーマスマラナ」は「唯一の」真実を求めるために「多数の」御名と御姿を用いるのもありうるのかとも思いました。神道や仏教の一意専心(この段階で二つですが)にはこの考え方はどうなのでしょうか。ヒンディも多神教とはいわれますが、「真実」を求めるために多くの神がいるわけで、西洋的な意味で多神教とはいえないというのが学んだところですが、そこでも他のお社に尊敬を欠くことはないようです。その世界の中で「ナーマスマラナ」についてを日本との比較で考えていきたいと思います。

千葉:男性