2024年8月31日土曜日

サイババの、御言葉 2024/8/31

 神に、世俗的な利益を求めて祈ってはなりません。
恩寵だけを求めて祈るべきです。
その一意専心の信愛は、長きにわたるサーダナ〔霊性修行〕の実践、特にナーマスマラナのサーダナ(神の御名を唱えながら神を憶念する修行)によってのみ、得ることができます。
あなたにその命と、それほどの知性と、それほどの無執着を与えてくれた主に感謝しなさい。
その感謝の気持ちをあなたの心(マインド)の背景にして、ナーマスマラナをしなさい。

1967年5月23日

お便り61

 初日のお便りで、以前からナーマスマラナが定着できずに悩んでいると申し上げた者です。

藁にもすがる思いで今回のプロジェクトに参加させていただきましたが、嬉しいことに最近自動的に脳内再生されていることに気がつきました。
今ではナーマスマラナが気ぜわしい心に平安をもたらすことを全身で感じており、神との距離が少し近づいたように思います。

皆様からのお便りがとても励みになっています。拝読する前は、プロジェクトには聖人君子のような方々が集うと勝手に想像していました。

ここでも多くの方が神の恩寵を得るべく日常生活で真剣に悩んだり迷ったりされていらっしゃいますが、共感や憐れみの情を抱く自分もその一員なのですね。自分と他人の垣根が取り払われた瞬間でした。それは何て幸せな気分でしょう!

山梨:女性


お便り60

 さて、サイババ様の御言葉と、その全文の掲載されたサイトを添付いただき、その御講話から、たくさんの真実を学ばせていただき、ありがとうございます。

クリシュナの御姿と釣り合うのはクリシュナの御名だけであるという真実。
そして、その先の、体という葉、ハートという花、心という果物、至福の涙という水を主に捧げるということが、本当のオーバーマインド(心を超える状態)に到達出来ると、御教え下さっていました。

その他の御講話も、これから深く学ばせていただきます。

そして、毎日こうして、私にとっての、見えなくも、大切なサットサングの存在を感じるお便りに今日も悩みながらも進まれる姿を想像し、学びや励ましをいただいております。
胸が熱くなります。
私も、神様への旅を前向きに歩めそうです。

ありがとうございました。

神奈川:女性

お便り59

 1週間いろんなことがありました。
神奈川県から福島県にクライミングに行きました。天栄村に着くと車のエンジン故障し、御名を唱え続けました。
虹が出て嬉しく神の御名を唱え続けました。車の保険会社の手配で、車を修理に出し部品の到着が13時、その間温泉を進められるも、配管工事で,ちょうど13時までの入浴で閉館。
入浴後は、休憩所で休めるとのことでした。入浴中も休憩所でも、ずーっと心の中で神の御名を唱え続ました。車は直ぐ直り嬉しくて神の御名を唱えました。翌日,雨降らず涼しい風の中クライミングを楽しむことができて喜び、感謝の御名を唱えました。道の駅で地元の新鮮野菜を食べられて感謝の神の御名を唱えていました。

家に帰ると裏山があるため、台風の緊急避難勧告で,自分が障害者のため、ソレ逃げろと逃げられない為、高台にある長女の家にワンちゃん共々、避難でき感謝の神の御名を唱えていました。
翌日、腕と肩が痛み、偶然仕事休みでいる次女に受診に連れてもらい、筋肉注射💉をして痛み緩和され感謝の神の御名を唱えていました。

苦しい時も不安な時も、喜びで、嬉しい時も、いつでも,どこでも、神様と一緒ですね。
どんなときでも、神様の御名を唱えられることが、大きな喜びとなっております。

神奈川:女性

お便り58

 御講話の「主の御名は、いつも、喜び、感謝、歓喜、そして、その御名の無類さと壮麗さの自覚と共に、口に出されなければなりません。愛と共に御名を口にしなさい。真摯な切望と共に御名を口にしなさい。」
の後に、ある偉大な聖者が、ヤグニャを執り行なっていた最中に蛇に噛(か)まれてしまいました。
弟子たちは、その出来事を悲しみ、その悪賢い爬虫類(はちゅうるい)を呪いました。
しかし、聖者は弟子たちを諌(いさ)めて言いました。
「呪ってはならない。蛇は神の使いなのだ。すべての生き物は親類知己である。その蛇は、神が私をこの肉体から解放するために遣わしたのだ。その蛇を敬い、歓迎しなさい。主の遣いを打ってはならない。」とありました、
まさに究極の神への信仰です。ただ弟子たちはいわれるまでそのような境地にはたっしていなかったようです。確かに聖者の境地を目標にすべきだと思いますが、同時に弟子たちの状況も考え、自分がどのような姿勢で臨めるかを考えたく思います。

一方、その前段に災難にあった時にナーマスマラナへの信心をなまけず専心することも言われています。
『ナーマスマラナ』 神の名前の不思議な力P28には意気消沈しているときにナーマスマラナに従事しなさいとなっており、心の底から唱えることが推奨されます。自分の力の及ぶ範囲で愛をこめてナーマスマラナに従事しようと思います。サイラム

千葉:男性

お便り57

 我々の本質が神だから、
理論的には
本質である、神の御名は、「いつも、喜び、感謝、歓喜、そして、その御名の無類さと壮麗さの自覚と共に」唱えなくてはならない」のでしょう。

ただ、迷妄でわれわれがとらわれているときはそれが迷妄であることを理解すべきなのでしょうか。
個人的は神の御姿(絵、彫像、写真など)を物理的にみることは(それが許されるのであれば)迷妄から遠ざかることができるように思います。

半泣きの笑顔でも笑顔は笑顔で、その本質は笑顔だと思います。
また、ガヤトリ―などのマントラは流すことに制約はなかったはずなので、迷妄から離脱するためによいかもしれません。
ただ、自分でお唱えするときに障害が生じるときにCDなどで聞きます。
神は恩寵を与えるために多くの試練を与えるように思いますが、それは罰ではなく,昇任試験ならばできうる範囲で受けたいものです。
神は決して見捨てることなく、乗り越えられないものは課さないのですから。
神の御意思にこのメールが合致しますように。
また過ちがあれば正されますように。このメールが愛をもって皆様に受け入れられますように。
このように思考し愛を感じることがそもそも神の恩寵だと思います。

千葉:男性

サイババの、御言葉 2024/8/31

 クリシュナの妃の一人であるサティヤバーマーは、クリシュナを天秤に載せて、それと釣り合う重さの純金を受け取ろうとしました。
ところが、クリシュナはいくらサティヤバーマーが天秤に純金を載せても、それより重かったのです。
サティヤバーマーは自分本位で、純金や貴重品はクリシュナと同等であるという誤った考えを持っていました。
一方、純粋で自分本位でなかったルクミニー〔クリシュナの妃の一人〕は、クリシュナの御姿と釣り合うのはクリシュナの御名だけであるという真実を知っていました。
葉、花、果物、水を主に捧げるというインドの伝統に従って、ルクミニーはクリシュナの御名を口にしながら、主に捧げるためのトゥラスィーの葉(聖バジル)を選びました。
ルクミニーが唱えたクリシュナの御名はクリシュナの御姿と同じ重さであることが証明された一方で、ルクミニーが捧げたトゥラスィーの葉はクリシュナの体重を上回り、サティヤバーマーはホッとして喜びました。

1993年5月24日

https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19930524.html

お便り56 【回答】

 Qどうしたら、喜びに満ちて唱えることができるでしょうか。

神の御名は自分が揺らいだ時の特効薬ではないことを理解すれば、乱れた感情の時に唱えることを避けられるのではないでしょうか。唱名は助けを求めたり、クールダウンしたり、すがったりする行為ではなくて「愛そのもの」だと思います。
日常生活でわきあがる負の感情は永続しないので、唱名の前に自分の好きなこと、美しい景色などで気分転換したり、先に瞑想をしてみるのも良いのかもしれません。
あと、義務感から500回唱えるよりも感謝のこもった1回のほうが、より深い喜びを感じられるのではないでしょうか。
どなたかも書いておられましたが、唱名をしている皆さんの事を考えるのも、一体感があって良い経験になっています。
いつもありがとうございます。

岡山:女性

お便り55 【回答】

 神の名前は一通りでなくともよいのでしょうか。ラクシュミー女神とサイババをそれぞれ108回のようにするのが問題なければそうしたいとおもいます。

 ↓

「108の御名」というものがあります。
108の御名は、それぞれ別の名前であり、
別の108種類の御名を一つずつ、合計108唱えます。
ですから、別の神様の名前を唱えて合わせて108唱えることに何の問題もないと思います。

東京:女性

お便り54 【回答】

 なぜ、神の御名は、「いつも、喜び、感謝、歓喜、そして、その御名の無類さと壮麗さの自覚と共に」唱えなくてはならないのか。

…神様は愛そのもの、そして私達すべてが帰融するべき魂の根源であり、純粋で一点の濁りもないお方なので、これら神様の本質をイメージしながらナーマスマラナをさせていただくことが、即座に神様に届くからなのではないかと、想像しています。

そのように唱えたくても、落ち込んだり怒ったり嫉妬に陥っている時には、なかなかそうはできないかもしれません。
そのようなとき、どうしたら、喜びに満ちて唱えることができるでしょうか。

…私は、このような時にいつも、独自の方法かもしれませんが、神様に出会えた歓喜、それはこの上ない素晴らしい恩寵だと、改めて自覚することから始めます。
そして、自分自身も神様なのだ、という不二一元論(アドヴァイダ)を習いましたので、それを思い起こすことで、あ、そうだった!と、喜びに満ちて唱えることが出来ます。

神奈川:女性

お便り53

 今朝は珍しい出来事がありました。
いつもは「サティアサイババ」と唱えるのですが、今朝は無意識のうちに今まで唱えた事のない「オームサイラム」と唱えていました。途中で気がつきました。
もしかしたら前世でそう唱えていたのかな?と思っています。

神奈川:男性

お便り52

 数ヶ月間、神の祝福を受けたマントラを朝から晩まで唱えていた時期があったので、今回も御名を唱えることができるだろうと思っていました。
しかし、それができない。どう言うわけか、さまざまな過去に戻りその時々で自分の至らなかった経験に気づくことを何度も繰り返すのです。今日は「なんて愚かなことをしていたのか」と気づくまでになりました。自分の愚かさをはっきりと認識できたことで、やっと一歩踏み出せるのではないかと思いました。私にはまだ執着や手放せていないものなどがあります。それらを抱えたまま幸せだと思いこんでいた自分の愚かさに気づき、そんなものを持ったまま御名を唱えても真の意味で幸せではないと思いました。まだ私は神と同じ時間を過ごせておりません。
神と一緒に生きていきたいので、変わろうとしているところです。
苦しみとはその先にある良くなることへの道筋を歩むことではないかと思います。
どんな経験も愛に向かうための道筋と思えるようになると、この世界は愛であふれているのではないかと。

皆さまのお便りを拝見するのも楽しみです。

千葉 

お便り51 【回答】

なぜ、神の御名は、「いつも、喜び、感謝、歓喜、そして、その御名の無類さと壮麗さの自覚と共に」唱えなくてはならないのか。

そのように唱えたくても、落ち込んだり怒ったり嫉妬に陥っている時には、なかなかそうはできないかもしれません。
そのようなとき、どうしたら、喜びに満ちて唱えることができるでしょうか。

これは私が思うことなのですが、「喜び、感謝、歓喜etc...」というのは御名を唱える時の最終到達点なのではないでしょうか。最初からそのような気持ちになれる人は、居ないに等しいと思います。仕事でも、勉強でも、スポーツでも、音楽でも、なんでも練習せずにいきなり上手くなんてなれないように、理想の御名の唱え方をいきなりしなさい、と言われても無理です。でも、信じる気持ちがあれば、不安でオロオロする気持ちの中でも唱えずにはおれないはずで、そういう中から、御名に助けられたなぁ、という経験(実際、私もいつも明るい気持ちで唱えられていた訳ではないけれど、たくさん助けられてきたから)を重ねることによって、信愛の気持ちが増して、いつしかそうなれるのだと思います。そこまでいかなくても、私は今は、ただ御名を唱えてさえいれば、心穏やかに安心して過ごすことができています。ババの御言葉に「人が必要な唯一の力は忍耐力です」と言うのがあります。できないからやっても無駄だ、と諦めるのではなく、とりあえずどんな気持ちでいたとしても、信じて唱え続ける忍耐力さえあれば、最終的に、理想の心の状態になれるのだと思います。変容すべきものは心です。心が平安になることです。とにかく信じて唱え続けること、神様を求めて、助けを求めて、叫び続けること、それが大事だと思います。歓喜を期待しすぎるあまり、途中で挫折してはいけません。劇的な体験を期待しすぎてはいけません。返って人からたくさん嫉妬を受けて、苦しい目にあうかもしれません。神さまはとても奥ゆかしいので、あなたがそうならないよう、分からないように助けてくださっているからです。助けられていることを、きちんと感じてください。カリユガの時代、いちばん効果のある霊性修行は、御名を唱えることだとババはおっしゃっています。呼べば呼ぶほど、神様はどんどん近づいてくださいます。神様にはその心の声を聴く力があります。御名には神様を引きつける力があります。そのことに気づくのに、私は何十年もかかりましたが、みんなの力で、皆さんはこの幸せへの御名が終わるまでに気づけるかもしれません。私の場合、カギは歓喜ではなく、神様を信じる力でした。頑張ってください、応援しています。

大阪:女性


2024年8月29日木曜日

サイババの、御言葉 2024/8/29

 ナーマスマラナにはもう一つのポイントがあります。

何かが起こってうんざりしているとき、あるいは、期待とは程遠いことや、嬉しくないような驚くべきことが起こる気配に不快になったり落ち込んだりしたとき、出し抜けに、「ラーマ」だとか、「サイ ラーマ」だとか、「マハーデーヴァ」などと言う人がいます。

彼らはそれを、ため息をつきながら、あるいは呻(うめ)きと共に口にします。

これは間違っています。

主の御名は、いつも、喜び、感謝、歓喜、そして、その御名の無類さと壮麗さの自覚と共に、口に出されなければなりません。

愛と共に御名を口にしなさい。真摯な切望と共に御名を口にしなさい。

1966年10月15日


今日の疑問/質問 2024/8/29

 なぜ、神の御名は、「いつも、喜び、感謝、歓喜、そして、その御名の無類さと壮麗さの自覚と共に」唱えなくてはならないのか。

そのように唱えたくても、落ち込んだり怒ったり嫉妬に陥っている時には、なかなかそうはできないかもしれません。
そのようなとき、どうしたら、喜びに満ちて唱えることができるでしょうか。

お便り50 【質問】

 神の名前は一通りでなくともよいのでしょうか。
ラクシュミー女神とサイババをそれぞれ108回のようにするのが問題なければそうしたいとおもいます。

あとできるだけ毎日唱えますが、何らかの事情でお唱えできなかった場合翌日以降にお唱えしたいと思いますがいかがでしょうか。

千葉:男性

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(事務局)

このご質問に回答できる方、お待ちしております。

お便り49

 本日のサイババ様の御言葉を、有り難くいただきました。

神様は愛そのもの。愛という恩寵を賜れなければ、カルマの結果を乗り越えることなど出来ないことを、わかりやすい例え話を、習いました。

ありがとうございます。

神様の御名を唱えることは舌の上に愛を絶やさないこと、そして思いを神に集中しながら、行為に従事出来るようになるためにも、ナーマスマラナの重要性があることを、改めて学ばせていただきました。

ありがとうございました。

神奈川:女性

お便り48 【回答】

 昨日のメルマガで、ご質問がありました。
「神様に種類はあるのでしょうか?」

私の個人的な考えだとは思いますが。

神様に種類は、あります。
そして、神様一つです。

だと思います。

神様は、みんなが神様を意識できるように、
様々な名や姿を現してくださっています。
そのお陰で、自分が近づきやすい神様を見つけることができます。
神様の様々な名と姿は、神様への入り口です。
ゴールの神様に至るための、スタート地点です。

神様に見える印象は、自分の写し鏡だと思います。
優しく見えるのであれば、自分の優しさ。
厳しく見えるのであれば、自分の厳しさ。

その時の心持ちも反映しているのかもしれません。

東京


2024年8月28日水曜日

サイババの、御言葉 2024/8/28

 カルマの結果を乗り越える方法が一つあります。
もし、あなたが神の恩寵を手に入れるなら、山のような罪も塵と化すことができます。
神だけがそのような恩寵を授ける力を持っています。
炎の火の粉は山積みの綿を焼き尽くすことができます。
火の粉はどうやって人間の苦境という「山」に入り込めばよいのでしょう?
ひたすら愛によってです。
愛を育てなさい。
常に神の御名を憶念しつつ、愛を込めてすべての人に仕えなさい。
神の御名が舌の上になければ、マインドはあちらこちらを走り回ることでしょう。
ぐらつきが生じる源はマインドです。
それゆえ、思いを神に集中しながら、行為に従事しなさい。

1987年11月23日

お便り47

 神の御名はいつでも唱えられるはずなのに、日々の仕事や趣味とは切り離して生活していました。

ただ、この御言葉を読んで、何しろ切り離さないで、ずっと唱えてみようと思ったのです。

お掃除をしながらも、歩きながらも、好きな音楽をききながらも、テレビを見ながらも。

神の御名を唱えることは決してそうした日々の活動を妨げるものどころか、とても快適なものに替えてもらいました。

要は自分の意識しだいだな、とわかりました。

東京:女性

お便り46 【質問】

 質問があります。

神様に種類はあるのでしょうか?
サイババさんは優しい神のような気がします。
聖者さんたちは、相当厳しい気がします。

変な質問ですみません。


お便り45

 自分に何が欠けているのか、何が足りないのかばかり考えていましたが、大切なのはそこでは無いことに気付きました。

自分の思考がゆるゆると解けていくのを感じています。

岡山県:女性

お便り44

 私は、おおよそ決まった時間に、カウンターを指に装着し、瞑想しながらナーマスマラナをさせていただきますが、二日〜三日経った頃からは、ふと気付くと、2~5回等、少ない数ではありますが、断続的にナーマスマラナをしていること、そして一週間経った頃からは、見えなくとも同じ思いでナーマスマラナをしている、仲間の皆さんを思い描いてさせていただいていることに、ハッとしました。

世の中のすべては神様、神様しかおられないこと、そしてすべて繋がっていることをイメージしやすくなった感を、静かに、そしてとても歓喜として受け止めさせていただいております。

神奈川、女性

お便り43

 サイラムにまつわる話といえば、もう何年も前の話になるのですが、私は若い頃、気が強くて、でしゃばりなところがありました。ある時、道を歩いていると、後ろからタバコを吸いながら自転車に乗っている中年男性が通って、私はその煙を吸ったので思わず、「タバコくさ!」と叫んでしまいました。すると、その男性が嫌がらせのように喉を鳴らすような鼻をすするような音を出したので、「きもちわる!(きもちわるい)」と言わなくてもいいのに、大きな声で聞こえるように言いました。すると、その人はくるっと自転車の方向をかえて、こちらに向かってきました。一緒にいた友達は、私を引っ張って、必死に逃げてくれたのですが、気の強い私は、殴るんなら殴れと言うような気持ちでした。私の心にはいつもババがいたから、そんな気持ちでいられたのでしょうね。私達が曲がり角を曲がって、男性が後を追って曲がり角を曲がって、私達がその曲がり角から出てきて、その男性の姿が見えなくなった時に、私が後を振り向いて大声で「サイラム!サイラム!」と言った直後、ドーンと何かがぶつかるような大きな音がして、それから静かになりました。男性が出て来なかったので、しばらくしてから、恐る恐るその曲がり角に行ってみると、もう、男性の姿はなくなっていました。どうやら男性は酔っ払っていたのか、角に立てかけてある大きな看板にぶつかってこけてしまったか何かで、びっくりして去って行ったようでした。サイラムに助けられた瞬間でした。私の行為も決してサイの帰依者にふさわしいものではなかったのに、それでもババは、日ごろから私がババの教えに従おうと頑張っている(頑張っているだけで出来ていない)のを見ていて、助けてくれたんだなぁ、と思い、ババの愛をしみじみ感じた出来事でした。この時は、明らかに天の助けと分かりましたが、日ごろから、私の気付かないところでもたくさん助けていただいているのだと思います。そんな日々の積み重ねで、今はどこにいてもババが守ってくださっているのだという確信のようなものがあって、年を増すごとに信愛の気持ちが強くなっています。

大阪 女性

お便り42

 神奈川県から福島県に来ています。車のアイドリングの音が変で,車の修理屋さんに行こうと向かう途中,突然虹が現れました。主人に車を停めてもらいました。早くしてと言われましたが、突然の虹は何か意味があるのではと思い写真を撮って車屋さんに着くと同時にエンジン付近から白い煙が出て怖くなりました。
夕方で車屋さんは、シャッターが閉まって誰もいません。とにかく焦りました。
虹の写真を眺めながら、きっとスワミが心配ないと虹を見せて下さったのではと慰められました。


神の御名を繰り返し唱え心のパニックを落ち着かせました。車からの白い煙が怖くてJAFを呼ぶことにしました。JAFが到着するまで、神の御名を唱え続け心臓のドキドキを精神的にパニックを落ち着かせることができました。正に神の御名は、絶対的な守護神と確信しました。

まもなくJAFが到着して優しいスタッフでした。福島県から神奈川県の自宅まで、どのように帰るのか途方に暮れていました。任意保険のロードサービスのことをいろいろ教えてくださいました。詳しい説明を聞いても覚えられず、ヴェーダーの録音するときのようにボイスメモに録音しました。
その通りに保険会社に問い合わせるとJAF代も車共々、家に帰るまでの間も保証されるとのことでした。
突然現れた虹を思い出し、何も心配ないことに安心しながらスワミに感謝して道の駅で車中泊しました。
寝る時も幸せへの神の御名に感謝し幸せな気持ちで眠りに着くことができました。
幸せへの守護神の御名の虹の写真を添付させていただきますね。

神奈川県:女性


2024年8月27日火曜日

サイババの、御言葉 2024/8/27

この急を要する義務を逃れるための共通の言い訳は、今は忙しすぎてスケジュールがいっぱいなのでナーマスマラナをする時間がない、というものです!

避けられないという理由で百もの仕事の負担に耐えることができるなら、ナーマスマラナという追加の務めはそれほど嫌なものでしょうか?

百を背負っている人は、間違いなくもう一つ背負うことができます。

さらに言えば、ナーマスマラナは行事のスケジュールの一つではなく、土台となる絶え間ない活動です。

ナーマスマラナは、呼吸と同じく、重要で不可欠なものとならなければなりません。

舌には砂糖と同じように歓迎され、睡眠や食べ物や水と同じように、幸福な人生の根幹でなければなりません。

この永続する一つの仕事は、百の仕事すべての負担を減らし、それらをもっと明るく、もっと価値のあるものにするでしょう。

毎日、神を思いながら起床しなさい。
毎日、神の御名と共に過ごしなさい。
そして、神の御名の中にある神の栄光を思って床に就きなさい。

1968年9月23日

今日の疑問/質問 2024/8/27

 これまでに、神の御名を通して気付いたこと、
体験したこと、等がありましたら、お送りください。

もしよろしければ、
お住まいの都道府県名と性別を添えてください。

お便り41

 世間では宗教は、ちょっと抵抗のあることとの風潮があります。
今回みなさんと共に御名を唱えていて、ふと思ったのです。
神の御名は、宗教を越えている。
各宗教の垣根を越えて、すべての宗教は同じ目的に進んでいる。

と、とりとめのないことが、頭に広がりました。

神の御名には、とてつもない愛と力、
そして意味を超越した意味がある。

その神の御名を唱えることができることは
すごく恵まれた恩寵なのだと、ズドンときました。

恩寵と努力が必要だと、スワミはおっしゃっています。

唱えることができるという恩寵を与えられた。
その恩寵を得るには、努力が必要。
どのように神の御名と共に過ごし、
本当に神の御名を唱えるにはどうしたらよいのか。

これからも、みなさんと共に
神の御名を携えて歩ませてください。

2024年8月26日月曜日

サイババの、御言葉 2024/8/26

神を実感するには愛(プレーマ)を育てなければなりません。
神の御名を心(ハート)の祭壇に安置すべきです。
御名の芳香は記憶に甘味をつけてくれるでしょう。

書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」 P.65 より

バジャンで歌われるラーマの別名

 【Ram:ラーム】

【Raghava:ラーガヴァ】(ラグ族を祖先にもつ)

【Ramchmdra:ラーマチャンドラ】

【AhalyoDharaka:アハツルリョーダーラカ】(「アハルヤの救済者」という意味。アハルヤは呪いにより石にされていたが、ラーマの神聖な御足に触れ、生命を取り戻した)

【Dasharathe:ダーシヤラテー】(ダシャラタの息子)

【Kausalyatmaja:コーサルヤートゥマジャ】(コーサルヤの息子)

【Raghupat:トラグパティ】(ラグ族の主)

【GhanaShyam:ガナシヤーム】(雨雲のように青い色の肌をした方。クリシュナとラーマの別名)


お便り40

 今回の質問で気付いた事があるのですが、亡くなった愛犬の祭壇は御骨と共に綺麗に飾ってあるのですが、私はその祭壇に手を合わせたり祈ったりした事はないんです。彼の精神は祭壇には存在していなくて、私の心の中や他の生き物の精神性の中に存在してると思っているからです。ですので色んな生き物を愛しく感じています。

もしかするとヤグニャ・礼拝も同じではないでしょうか?

祭壇や物に対して祈りを捧げるのはもちろん意味のある尊い行為ですが、神の御名を同時に唱える事で「愛そのもの」を添える事が可能なのではないでしょうか?

瞑想に関しては私は雑念が浮かびがちなので、明日からは集中が切れたら御名を唱えようと思います。

岡山:女性

お便り39

 今朝の気づき。
すべての満たされない存在達へ幼子の孤独をなぐさめるように笑顔はどうすれば引き出されるか、食べものか?遊びか?問いかけか?あなたに頼るしかない子猫の世話をするようにその様子を゙ハ−トで練ってあなたの全身に放射してくださいあなたの全身が満足したら対象を広げて放射し続けるその練度が増したらその放射力はマシンガンのようにまたはニュークリア―の゙ような巨大な愛の放射にナ−マスマナラムはなるのではと有り難いです。
シュリサイラム

お便り38

 いつもありがとうございます。スワミのメッセージや促しを感じます。
さて、下記のことについて自分の思う事を気ままに記入させていただきました。ご容赦ください。

1.「神性な性質」とはどのような性質でしょうか。

「私は私」のこの私の特性。アートマの性質。(言葉にできる部分を言葉の範疇に表現すれば)平安で至福溢れるアートマの性質。

2.なぜ、神聖な性質を育てると、どこまでも成長し、あらゆる面で進歩を遂げられるのでしょうか。

アートマ原理のないところはなく、アートマ原理からそれない限り繁栄、維持されていると思う。万一衰退してもその栄光は永遠だと思うから、、ヴェーダやダルマのように。

3.あらゆる面で進歩を遂げた人って、どのような人でしょうか。

全てを平等に見て公平に愛し、私利私欲で、何事にも依らず、愛(神)の甘さに浸っている人。

4.「神性な性質」を育てるにはどうしたらよいのでしょうか。体験談やこうすればというイメージでもOKです。

内面で神を感じ、神と一つになる(内面のアートマの甘さに溶け込ませる)。どんなサーダナでも祈りの中においても、この繰り返しで神を知り神と一つになれると思う。

2024年8月25日日曜日

サイババの、御言葉 2024/8/25

シャーストラの引用句に、このカリ・ユガにおいては、神の御名を歌うことによって、死を免れない惨めな生存という束縛からの解脱(モークシャ)を得ることができる、というものがあります。

実に、この時代ではナーマスマラナこそが人生の問題を解決する唯一の方法なのです。

その方法は、クリタ・ユガでは瞑想(ディヤーナ)であり、トレーター・ユガではヤグニャ〔供犠〕であり、ドワーパラ・ユガでは礼拝(アルチャナ)でした。

今のカリ・ユガでは、人の中で激性(ラジャス)の活動が優位に立っているために、瞑想やヤグニャや礼拝に従事することは不可能です。

それゆえ、迷妄という海を渡る最高の手段はナーマスマラナであると宣言されているのです。

カリの時代に瞑想やヤグニャや礼拝といった他の霊性修行によって成果を得られるのは、それらの霊性修行に、神の御名とその愛の甘さを併合した場合に限られます。

書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」 P.22 より

今日の疑問/質問 2024/8/25

なぜ、瞑想やヤグニャや礼拝といった他の霊性修行は、
神の御名とその愛の甘さを併合することで、成果が得られるのでしょうか。

神の御名とその愛の甘さを併合するとは、どのようにすることでしょうか。

お便り37

 今日も御名に救われました。昼の3時に自転車で1時間のところに行かなければいけない用事があったのですが、その日は、台所に立って(エアコンなし)少し食事の準備をしただけで立ちくらみがして、ふらふらしていました。外は熱中症の警戒予報が出ている程の暑さ。運動神経もあんまり良い方でない私は、自転車に乗る時はいつも、サイラムサイラムと唱えるのですが、今日も唱えて行きました。すると、往復2時間の道を無事に安全に家にたどり着くことができました。ひざや足首の関節が痛くなったりもせず、出かける前より元気になっているようでした。私の運動神経からすると、いつ事故にあったりケガをしたりしてもおかしくないのです。自転車に乗る時は、いつもババを感じて快適安全に過ごせています。我ながらすごい!ババ、ありがとう。

大阪:女性

お便り36

 御名を唱えようになり、いろいろ思い出すようになりました。初めてスワミにお逢いしたことや何度かインドに行ったこと等。
ワンちゃんが癌になり、手術をして良くなっていました。また腫れ物が大きくなったら、腫瘍ですと言われていました。動物病院で診ていただき腫瘍で、検査や治療は高額になると言われていました。高額な検査しても治らなかったらと心配で不安でした。苦しいときの神頼みではないけど、スワミのヴィブティーをワンちゃんが真っ白になるほど塗りたくりました。
すると翌朝には、腫瘍は不思議に小さくなり動物病院に行くと腫瘍は消失して高額な検査をしなくて良いと言われたこと。家族も脳梗塞で、2回も入院したこと等、脊柱管狭窄症で痛がり家の中を這って歩くのもままならず、手術になるかも手術しても再発するようで、将来の生活が不安で心配ばかりでした。
振り返ると家族共々ワンちゃんも、衣食住に困らず生きている、本当に奇跡と思い出すようになりました。
神の御名とスワミのヴィブティーをセットと思い心から感謝いたします。
今も麻痺の肩の痛みで、また脱臼したのではと思いヴィブティーを塗りたくりこれを書いていました。
気がついたら、かなり痛かった肩の痛みが消えています。信じられない本当に不思議です。神の御名を唱えることにより幸せ倍増になりました。
全てに心から感謝いたします。

お便り35

 さて、サイババ様の御言葉を有り難く学ばせていただきました。

サイババ様の御言葉は、魂のハートにダイレクトに働きかけて下さることと、私達人と人との間でも、人を生かすも殺すも自分次第という、言葉の威力を、痛感しております。

サイババ様からの甘美な御言葉をいただき、それを力に変えて、私は善なる心と言葉と行いを心掛けます。

そして、今日も皆さんからのお便りを拝見させていただけ、サイババ様からの愛の証であるエピソードを、お教えいただきました。

温かい気持ちになり、また明日も精進させていただく勇気をありがとうございました。

お便り34

ありがとうございます
サイラム

2024年8月24日土曜日

サイババの、御言葉 2024/8/24

 今、人々はナーマスマラナやナーマ・サンキールタナ〔神の御名(ナーマ)を集団で歌うこと(サンキールタナ)、ナーマ・サンキールタンに同じ〕の概念を馬鹿にして笑います。

『名前の中にいったい何があるのか?』と人々は問います。そのような人々にとって、御名は言葉と音の寄せ集めにすぎません。

私の言葉もまた、言葉と音の寄せ集めです。けれども、私の言葉が心(ハート)に入ってくると、勇気づけられた気持ちや満たされた気持ちになりはしませんか?

言葉には途方もない力があります。

言葉は、感情や激情を高ぶらせることも、抑えることもできます。

言葉は、指示することも、激怒させることも、あるいは、感化させることも、そして、眠っている力と叡智(えいち)を引き出すこともできます。

ですから、御名を固く信じて、機会があればいつでも繰り返し御名を唱えなさい。

書籍「ナーマスマラナ:神の名前の不思議な力」P.20 より

お便り33

 今まで夜に神の御名を唱えていましたが、先日から時間があればいつでも唱えています。
唱名を開始してから一体感を強く感じるようになりました。
大自然・人類史・宇宙空間みたいな物との一体感です。
この一体感はとても神聖で神性な経験でした。
私自身も人類史・大自然・宇宙空間の一部である事にハッと気付き、喜びを感じています。

お便り32

 1.「神性な性質」とはどのような性質でしょうか。

神への帰依心。

2.なぜ、神聖な性質を育てると、どこまでも成長し、あらゆる面で進歩を遂げられるのでしょうか。

神を想うことによって、自然と神とのパイプが強まり、神の仕事(使命)を行うことになるから。

3.あらゆる面で進歩を遂げた人って、どのような人でしょうか。

ババみたいな人。

4.「神性な性質」を育てるにはどうしたらよいのでしょうか。体験談やこうすればというイメージでもOKです。

人間に愛想を尽かさないで、できるだけ優しく接する。無理をしすぎない。あきらめない。ひとりの時間を持つ。楽しみを持つ。ペットの目をじっと見つめる。カリユガの世なので、みんなが苦しんでいることを忘れない。etc.

大阪:女性

お便り31

 1.「神性な性質」とはどのような性質でしょうか。

…私は、神様の性質とは、神様そのものの性質、つまり、愛と誠の具現化が出来ることなのではないかと、思います。

2.なぜ、神聖な性質を育てると、どこまでも成長し、あらゆる面で進歩を遂げられるのでしょうか。

…神様の性質を、一歩一歩備えるための真の精進に、神様が応えて下さり、手を携えて導いて下さるからだと、信じたいのです。

3.あらゆる面で進歩を遂げた人って、どのような人でしょうか。

…神様へも、自分以外のすべてに対しても、謙虚さと忠実さを持って接することが出来、無私無欲の人であることだと、私もそうなりたいと、いつも願っています。

4.「神性な性質」を育てるにはどうしたらよいのでしょうか。体験談やこうすればというイメージでもOKです。

…心も言葉も、行いも、同じであることを心がけることや、食事の内容も、簡素だが、純粋な食物に感謝出来る人になることを、サイババ様の御教えで幾度となくお導きいただきました。

私は、毎日礼拝の際にこれらをサイババ様に祈り願います。

以上です。

間違っていたら、申し訳ありません。

神奈川:女性

お便り30

 私にとって神の御名とは、ズバリ、お守りです。

私の心と体を、あらゆる悪と危険から守ってくれます。

大阪:女性

お便り29

 私も、昨日今日と通信が届かなかった中の一人です。

これは、サイババ様が思考を少しお休みし、仕切り直ししなしい、と私におっしゃられているからなのだと、心をまっさらにしようと努めておりました。

皆さんの中にも、機械の何らかのトラブル?でメール受信がなされなかった方があったのですね。

お知らせ下さった方、そして事務局の方には、お手数をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。

ありがとうございます。

「改めてお聞きします。あなたにとって、神の御名とは何ですか。何故、神の御名を唱えようとしているのでしょうか。」

とのご質問をいただきました。

私は、神の御名とは、私達一人ひとりの魂の根源だと、強く感じています。

そして、カリユガのこの時代にあっても、神様と自分自身は一つであること、「私は私である」という、アドヴァイダ(不二一元論)から遠ざかってしまった私達人類が、再び神様の御許へ到達するために、神様から、帰っておいでと、えることを許されている、と受け止めております。

ですから、一回一回のナーマスマラナを、この思いでさせていただきながら、胸が熱くなり、時折泣きそうになります。私だけでしょうか?

神奈川:女性

お便り28

 今朝、神さまの御名を唱え嬉しいことがありました。
寝起きから,珍しく麻痺腕の肘や肩が痛みました。神さまの御名を唱え終わり自宅の祭壇に置きっぱなしのビヴティーを思い出しました。
3年前の退院後、インド帰りの方に、何かから出現されている(忘れました。)ヴィブティーをいただきました。
有り難く思い、新しい小箱にビヴティーを入れ、東京センターで祭壇から戴いたビヴーティと混ぜて自宅の祭壇に置いていました。ヴィブティーは、今まで自分が体験しないと実感しないと少し疑念がありました。
今朝,あまりにも痛む麻痺の肘や肩に塗りたくりました。いつの間にか、あんなに痛かった肘や肩の痛みが消えていました。信じる者は救われると改めて思い知らされました。ババ様効果と思い、幸せへの御名99のプロジェクトに感謝いたします。

2024年8月23日金曜日

サイババの、御言葉 2024/8/23

 一つであるという感覚、一体性の感覚をもちなさい。
この種の神性を得ようと努めなさい。
神性な性質を育てなさい。
あなたたちはどこまでも成長することができます。
人生のあらゆる面において、物質的にも、肉体的にも、霊的にも、
皆さんは必ず進歩を遂げます。
そして、皆さんはリーダーとなるでしょう。
ですから、神の御名を繰り返し唱えなさい。
絶えず神を思っていなさい。

(バガヴァンはここで二曲のバジャン、「ピバレー ラーマ ラサム」と「ワへ グル ワへ グル」を歌われ、帰依者たちは喜びに我を忘れて後について歌いました。)

1999年11月21日


今日の疑問/質問 2024/8/23

  1.  「神性な性質」とはどのような性質でしょうか。
  2. なぜ、神聖な性質を育てると、どこまでも成長し、あらゆる面で進歩を遂げられるのでしょうか。
  3. あらゆる面で進歩を遂げた人って、どのような人でしょうか。
  4. 「神性な性質」を育てるにはどうしたらよいのでしょうか。体験談やこうすればというイメージでもOKです。

お便り27

 いつも、愛するみなさんのお便りをありがとうございます。

「幸せへの御名99」が始まってから、私の神の御名の唱え方が変りました。
唱え方が変ったというより、私の神の御名との関係が変わったと、いいますか。

以前はとにかく唱えていれば、何か変わるだろうと思い、唱えていた感じでした。
それは、半ば義務感からとでも言いますか。

みなさんのお便りを呼んでいて、唱え方が変わりました。
そうしたら、御名を唱えるたびに、幸せを感じるように、突然なりました。
頭にネガティブな感情や、重い気持ちになったときでも
一回の御名で私を満たすと、不思議と、本当に不思議と
すべてが明るくハッピーに軽やかになるのです。

プロジェクトの主催の方には申し訳ありませんが、
今では御名の数を数えていません。
毎日500回と登録していたのですが、
何かに集中している時以外は心の中で御名を唱えているので、
500回は優に超え数千回は唱えていると思います。

それも唱えたいから唱えている、という感じです。

ひょっとして主催の方は、そうなることを目指して、
メルマガで私たちを、いろいろな情報でそそのかし...
失礼! 鼓舞してくださっているのかと、感謝しております。

昨日のご質問「あなたにとって、神の御名とは何ですか。」
これを考えておくことはとても重要だと感じました。

自分にとっての神の御名とは、を考えれば考えるほど、
神の御名、そして神への愛が深く広くなっていきました。

そして、心がブレた時でも、
一度それを考えて、自分なりの答えをだしておくと
そこにすぐに戻ってこられる。
そんなことで、とても重要だと思いました。

長々と失礼しました。

2024年8月22日木曜日

サイババの、御言葉 2024/8/22

 全託という行為の印として、そして、全託を維持するために申し渡されるものとして、絶え間ない神の御名の憶念(ナーマ スマラナ)以上のものはありません。

心身を疲れさせるような霊性修行(サーダナ)の規則は何も指示されていません。

憶念(スマラナ)だけで十分です。

1974年2月21日

今日の疑問/質問 2024/8/22

 改めてお聞きします。
あなたにとって、神の御名とは何ですか。

何故、神の御名を唱えようとしているのでしょうか。

お便り26

 まさか、こんなに効果があるとは思っていませんでした。

最初はよくある(?)霊性修行の一つとして、
霊性のセミナーやワークショップで、終わったときに、
あー感動したなぁ、いいこと教えてもらった、考え方が変わった、
というくらいの効果を期待していました。

だけれど、このプロジェクトに参加し、
神に近づきたいという方々と共に、思いを同じにしていると
何か、自分の中が根本的に変わってきた、
いや、元の自分に、軽やかで喜びに満ち、それでいて平安へ進んでいる。

言葉でいうのは難しいのですが…。

ひとりひとりが自分の内に向っている、
そんなみなさまの中にいられるこの環境。
これは本当に恩寵だと思っています。
今しかできない、だからこそ、さらに真剣に取り組みたいと決意しました。

頭や知識や社会常識ではない。
これがサットサングというものなのですね。
ありがとうございます。

東京:

お便り25

 (19日のお便りへの、お便りへの、返信)

理解のできない知らない人をいきなり愛するのは確かに難しいですね。今ある愛を少しずつ広げていけば良いとの言葉が心に響きました。

本当にありがとうございます。

そしてジャダについての解説が初心者にも分かりやすく的確で大変勉強になりました。

お便り24

 さて、先日習わせていただきました、"ジャダ"につきまして、印度女性の方のお便りで、ラジオサイのホストをされている方へ直接質問をして下さった内容と、また関東地域女性の方、【AI】ChatGPでもお調べ下さり、それらを投稿いただきましたこと、何と有り難いことかと、感謝申し上げます。

本日いただきました、サイババ様の、御言葉

イエスの御名をどれほど繰り返して唱えても、
祈りのためにどれだけ長い時間ひざまずいても、
神の愛についてどれほど黙想しても、
欠かすことのできないある種の理解が伴っていなければ、
あなたの無知という黒い炭は純白の霊的純粋さとはなりません。

あなたが、
神の本質と、神の理想とする地上のあり方とを把握しはじめるとき、
神の英知の光は、おのずから、
この世と次の世のあらゆる側面を明るく輝く純白なものに変えていきます。
そこでは、無知の闇は存在する余地がありません。

無知はおのずと消えてしまいます。
神に関する知識が育てば、
無知は自然に去っていきます

の一端を、リアルに体験させていただけた思いです。
字面だけを追っていた自分が恥ずかしいです。
一朝一夕には、真の理解は深まらないとは思いますが、自分自身に起こるすべてのことを、霊性修行と心得、精進させていただく中で、そして繰り返し、繰り返し、拝読させていただく中で、神様が私の中の無知の闇を取り払って下されば下さるほど、理解が許されるのだと受け止めます。

この旅を、こうして見えなくとも繋がることが出来ている仲間と共に、勇気を持って歩んで参りたいです。

ありがとうございました。

神奈川:女性

2024年8月21日水曜日

サイババの、御言葉 2024/8/21

 イエスの御名をどれほど繰り返して唱えても、
祈りのためにどれだけ長い時間ひざまずいても、
神の愛についてどれほど黙想しても、
欠かすことのできないある種の理解が伴っていなければ、
あなたの無知という黒い炭は純白の霊的純粋さとはなりません。

あなたが、
神の本質と、神の理想とする地上のあり方とを把握しはじめるとき、
神の英知の光は、おのずから、
この世と次の世のあらゆる側面を明るく輝く純白なものに変えていきます。

そこでは、無知の闇は存在する余地がありません。

無知はおのずと消えてしまいます。
神に関する知識が育てば、
無知は自然に去っていきます。

1977年12月25日

特集「ジャダ」

 先日配信の御言葉の「ジャダ」について、さらに情報をよせていただきましたので紹介させていただきます。https://shiawasehenomina.blogspot.com/2024/08/2024818.html
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スワミへと続く道を共に歩む巡礼仲間からのメールを拝読し、勇気付けられたり考えさせられたりと本当に心強いです。
毎日のセヴァ、ありがとうございます。

さて、先日のご質問を拝読し、その延長線上でスワミの御講話の和訳版、英語版を読む機会を頂きました。
参照として元の御講話を掲載して下さり、ご配慮に感謝いたします。
また、ジャダとは、訳者泣かせの言葉ですね...私もその翻訳の難しさを痛感致します。

そこで、ラジオサイで長年トークショーをホストしているブラザー・プレムに、ジャダの意味を詳しく聞いてみました。

彼は、ギータ・シリーズを今年始めに終えたばかりで、最近は、SMNシュラヴァナム・マナナム・二ディッティヤーサム(傾聴と熟考と消化吸収)の3シーズン目を、ブラザー・サイプラカーシュと共にホストしており、サイの学生の中でも際立ってスワミの御講話やサイ関係の著書に造詣が深い方の一人です。

つきましては、質疑応答の内容をお送りいたしますので、みなさまの疑問解消のお役に立てれば幸いです。

印度:女性

ーーーーーーーー 質疑応答 ↓

【質問】 スワミの御講話の中に、ジャダという言葉が出てきます。
具体的にその意味をご説明ください。

【回答】 ジャダとは、「自動力のないもの、そのもの自体が不活性」という意味です。
これは、この世の実体は感覚と無感覚、あるいは有意識と無意識の2つのカテゴリーに分類できるという概念に基づいています。
意識的なものはチャイタニヤと呼ばれ、不活性なものはジャダと呼ばれます。
対比を例に挙げてみると、身体はジャダであり、アートマはチャイタニヤ。大局的に見ると、宇宙全体がジャダであり、それを動かしている主がチャイタニヤの側面です。

【質問】 なるほど…では、プルシャ「根源的宇宙・神」と、「プラクリティ(原質・自然界)」の対比で言うならば、プルシャなしでは何もできないから、プラクリティはジャダということですか?

【回答】 はい、そうです。
しかし私たちは、この言葉をより大きな文脈で使っています。
そのためジャダとチャイタニヤは、あらゆる例に当てはまります。
車はジャダで、中にいる運転手はチャイタニヤ。
手袋はジャダで、中にある手はチャイタニヤ。
感覚はジャダであり、それを動かすアートマはチャイタニヤ。

【質問】 分かりやすい例えを、有難うございます。
最後に、英語の訳語にある、Inert(不活性)に似た、ジャダを表す別の英語の言葉を教えてください。

【回答】 無生物、無感覚、生命がないもの

【質問者】 なるほど、有難うございました。

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また、【AI】ChatGPTへの質疑も送っていただきました。
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ジャダは、やはり、「自動力のないもの」「無生物」「不活性なもの」と訳すことが多いです。
わかりにくいので、私たちが(読者が)深く考えるきっかけになる言葉ですね。

ぴったり当てはまる日本語がない言葉(翻訳者泣かせの言葉)というのは、日本にその概念がないということなので、私たちが理解しずらいのは仕方がないことです。たとえば、フリダヤ、マナス、プラグニャーなど。・・・・

関東地域:女性

ーーーーーーーー AIに聞いてみた ↓

AIへの質問:
サンスクリットのジャダとは何ですか?

ChatGPT:
サンスクリット語の「ジャダ(Jada, जड)」は、「無知」「無意識」「鈍感」「生命のないもの」などを意味します。具体的な意味は文脈によって異なりますが、一般的に以下のようなニュアンスがあります。

1.無知・無意識
神的な知識や意識が欠如している状態を指します。この意味では、知恵や認識力が欠けている人や状態を「ジャダ」と呼ぶことがあります。

2.生命のないもの・物質
生きていない物体や、意識のない存在(たとえば、石や木などの無機物)を指す場合にも「ジャダ」が使われます。

3.鈍感・鈍重
感覚が鈍い、あるいは反応が遅い、重いといった意味でも使われることがあります。感受性や反応が鈍いことを示すために用いられることがあります。

サンスクリット哲学やヒンドゥー教の文献では、「ジャダ」はしばしば精神的な無知や物質的な存在(プラクリティ)と対比され、意識的で精神的な存在(プルシャ)や知識を強調するために使われることがあります。

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ネットの辞書からも調べてもいただきました。
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自動力とは、「自分で動く力」。

自動とは、(ネット辞書によると)

【自動】(じどう)

機械などが(自分の中に動力をもっていて)自分で動くこと。

  「―ドア」

他の例:「自動車」「自動運転」など

東京:帰依者

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これまでの情報も合わせて、自分なりの「ジャダ」とは、どのようなものになったでしょうか。
このみんなの知識の集まりが、神の創られたこの世界を理解する一助になればと願っています。


お便り23

 19日のお便りへの、お便りhttps://shiawasehenomina.blogspot.com/2024/08/19.html
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愛する人への良くない書き込みに心痛めるのは当然だと思います。「所有欲」とか難しいことを考えずに、愛する人がいるというのは、神様の祝福だと思うので、(愛がなくならないように)大切にして、その愛を無私の愛へと深めていくことをしてみてはいかがでしょう。そうすれば、愛する人との関係がより良くなり、ひとりの人とでも愛が深まれば、心にゆとりができて、自然と他の人の心情も考えれるようになり、愛が広がってゆきます。自分に関係のない人を愛せないのは、その人のことを良く知らないからで、神様はすべての人のすべてを知っているので、すべての人を愛せるのだと思います。ですので、対象は誰でもいいのです。簡単に愛せる人から始めて、だんだんと難しい人へと愛を理解を広げていけばいいのだと思います。愛せない人がいるのではなくて、理解できていない人がいるだけです。そうして、愛する人が苦しむのを見るのは、誰だって苦しいと思います。それでいいのだと思いますよ。

大阪:女性

お便り22

 神様の御名を唱えるようになり,倦怠感の日,神様の御名がいつの間にか、オーム シュリサイラムと繰り返していました。

一日横になり、夜は唱えず寝入ってしまいました。

翌朝、夢でサイババ様のポストカードの御姿を見ました。
そのうち、お写真の御姿が消え、ただのポストカードになってしまいました。

久しぶりにサイババ様に関係する夢を見られたのに、御姿が消えて残念でした。

夢は見ようとして見られるのではないので、何かメッセージかと思い、神様の御名をきちんと唱えようと決心しました。

神奈川:女性

お便り21

 【サイババ様の、御言葉】

神をあなたのランプとしなさい。
そうすれば、人生を安全に送ることができます。
舌の上に神の御名を保っていなさい。
神は、その御名のとおりの姿をとらざるをえません!
ラーマの御名を憶念する、
ナーマスマラナ〔唱名〕の霊性修行を習慣にすることを、
今日、決意しなさい。

を学ばせていただきました。

2024年8月20日火曜日

サイババの、御言葉 2024/8/20

 神をあなたのランプとしなさい。
そうすれば、人生を安全に送ることができます。
舌の上に神の御名を保っていなさい。
神は、その御名のとおりの姿をとらざるをえません!
ラーマの御名を憶念する、
ナーマスマラナ〔唱名〕の霊性修行を習慣にすることを、
今日、決意しなさい。

1968年3月29日

お便り20

 神様の御名を定期的に唱えるようになって気づいたこと。
自分が神様に満たされている時と、そうではない「神様不足」になっている時を明確に感じることができるようになりました。

よく「運動不足」・・などと言いますが、定期的に運動している人でなければ、不足している状況はわからないでしょう。それと同じようにいかに常に唱えることが大切かがわかりました。

「神様不足」になると、不安や良からぬ思いがふっと入り込んでしまいます。

御名を唱えることで、また満たされていく。それがわかって感謝です!

東京:女性

お便り19

 SNSへの書き込みに対しての質問です。

(SNSで)ネガティブな意見や過激な書き込みを見た時、その方の生育歴や環境に思いをはせて相手の方を理解したり納得したりする事はできています。ところが、それが愛する者や大切な物に向かっての書き込みだった場合に心が乱れてしまいます。
*【自分自身への書き込みは全く気になりません】

これは「私の愛する者」という所有欲からくる苦しみでしょうか?

お便り18

 「ナーマスマラナ〔唱名〕は何に効くのでしょう。」

 →私は、誰の力も借りずに、孤独に、アートマ原理(神我、神性、本当の自分)を真に体得するために、神様がダイレクトに魂の心臓であるハートに働きかけて下さり、確かに住まわっておられることを確信出来ることに効くのだと、信じております。
また、その音声が振動となって、思いが大きければ大きいほどに、世界中のすべてに神様の愛を拡散していただけるのだと、強くイメージしてさせていただいております。

「ナーマスマラナ〔唱名〕は、何故最も効きめのある霊性修行なのでしょう。」

 →一つ目のご質問に続く、自分自身の中の神様を、すべての他の人、モノ、コトに同じ神様が内在していることを気付くに至り、すべてを愛せるようになれるからだなのだと、希望を持って取り組ませていただいております。

お便り17

 「ジャダ」の意味を考えてみました。

自動力(自分を動かす行動力)のないとは、こういう意味ではないでしょうか。
「完全に静止している状態」すなわち「ひたすらにすべてを信頼しすべてを受け入れて、何も行動せず、何も考えず、ただただそこに存在しているだけの時」。瞑想の時もそうですね。
そういう時に真理(全ては愛、全ては神)すなわち至福を感じる。それが覚醒意識。
例えてみれば、自然の中で横になって目をつむり、太陽の光や木の葉のさえずりをかすかに感じながら、深く自分の内側に入っていく時に感じる心地よさのようなもの。
そういった大いなるものに自分をすべて開放し手放した時に開く別の次元への扉が、覚醒(神)への扉、すなわち「ジャダ」なのだと理解しました。

つまり、あらゆる心配事を神にゆだね、雑念を払い、神を想いながら「無心」に唱える神の御名は、神への扉なのですね。

ただ唱えているだけでも、継続することで、だんだんと神とのパイプがしっかりしてきて、自然とそうなっていくのだと思います。

大阪:女性

お便り16

 大姉シスターのセヴァに預り東京センターの奇跡シヴァリンガムとルッドラ神群の御写真を゙頂き我が家の祭壇にお祀り致し今朝の行に入りまして長年の御姿の確信相成りました。シュリサイババに浅からぬ縁あるも女性信徒のバクティには遠く及ばなかった私にも黄金のチャパルにお立ちになるサイシヴァ神と黒い前立ちのリンガムがぴったりと私の硬い心にも重なり合いヴェーダの後に捧げるリンガ−シタカムに感謝ので平伏と成りましたありがとうございます

2024年8月19日月曜日

サイババの、御言葉 2024/8/19

 神の御名を連ねたバジャンをいくつか歌って私が講話を締めくくるのは、ナーマスマラナ〔唱名〕をするよう皆さんを促すためです。

インドの行政機関の役人でも、自分の子供にアルファベットを教えるには、石板の上にA、B、C、Dと書いてそれらの文字を発音してみせなければなりません。

あなたは役人がそうするのを見て、その役人自身がアルファベットを勉強しているなどとは思わないでしょう?

ですから、私がバジャンを歌っても驚いてはなりません。

私は単に、この最も効きめのある霊性修行を伝授しているにすぎないのです。

1968年3月29日

今日の疑問/質問 2024/8/19

ナーマスマラナ〔唱名〕は何に効くのでしょう。

ナーマスマラナ〔唱名〕は、
何故最も効きめのある霊性修行なのでしょう。

お便り15

 “御名は、人を確実に「その御名の持ち主のヴィジョン」へと導くことができます。
御名を唱える音声は、マテリアルでないものを明らかにするマテリアルであり、覚醒への扉であるジャダ〔自動力のないもの〕であり、そこに鎮座するチャイタンニャ〔覚醒意識〕です。
サーダナの目的は、クシェートラ(場)とクシェートラグニャ〔場を知る者(場の主/場を操る者)〕の両方を主として認識することです。„

質問:

上記の「ジャダ」の意味が分かりませんでした。「自動力」の意味を調べたら下記のように出ていましたが、意味が通じません。

自動力とは、行動力の一種で、自分を動かす行動力を指します。行動力には、自動力と他動力の2種類があり、他動力は他者を動かす行動力を意味します。

よろしくお願いします。

大阪:女性

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(プロジェクト事務局)

この御講話の全文はこちらになります。
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19870226.html

私たちはスワミのお話を、原語から翻訳を重ね日本語で読めるという恩寵を得ています。
翻訳の過程で、言語の壁はどうしても存在します。
原語にはあるが日本語にはない単語。
それを仏教聖典はじめ過去に訳された文献を研究し、できうる限り近い意味であろう訳を付けています。

私たちにはそれを読み解く特典、恩寵が与えられています。
霊性の文献の究極の意味は、言語を超えます。
私たちには直訳が難しいからこそ、その意味を探究する余白が与えられています。

さて、ご質問のありました「ジャダ」、前後の文も含めて、どのように理解をしますか?

お便り14

 初日より、サイババ様を強く、近く感じながら日常生活を送れている自分に、ふとした瞬間何度も何度も感じておりました。

そして、昨日、今日と二日間で、感謝の体験をさせていただきました。

まずは、昨日の二日目です。
私の夫は、かねてより、
車に乗ると、運転すると、周りの車や人々に、マイナスな思いを抱き、それを吐露してしまう性質がありました。
私は、改善されることをいつも祈り、本人にも伝えていましたが、26年、一向に変化は見られませんでした。
それが昨日、車に乗って出かける際に、発車直前、突然自らが宣言するのです。

夫「これからは、車に乗って、他の車や人に暴言を吐かないと決めたんだ。」

私「サイババ様は、我慢してするのではなく、制御して、さらにはそんな悪い性質を自分自身から追い出すことが大切とおっしゃっているよ。我慢だけでは、本当ではないんだよ。」

夫「すぐにはそうなれないかもしれないけど、努力する。それに、そう長く時間はかからないと、思うから。」

私は即座に、心の中で、夫が変わろうと努力し始めたこと自体が、サイババ様からの恩寵をいただいたことだと、ハートに住まわって下さっているサイババ様へ、感謝申し上げました。

次に、三日目の今日のこと。
我が家には、今月7歳になる愛犬が一匹います。今朝のお散歩の際の出来事です。
遡ること4~5年前のある日のこと、ノーリードの柴犬Kくんが、我が家の愛犬目掛けて走って来て、飛びつきました。
私は咄嗟に愛犬を抱き上げ、私が、飛びつかれました。
しかしそれは、明らかに悪意ではなく、喜んでいて、遊ぼう!という思いのあるものだとは、わかりました。
飼い主さんも、ごめんなさい!と平謝りでした。
私は、リードだけはつけて下さい、とお願いしました。

しかし、超小型犬の我が家の愛犬は、固まってしまいました。
それ以来、何度も会うので、とても気まずい思いを、私だけでなく、きっと先方の飼い主さんも柴犬くんも感じていたに違いありません。

それが今朝、その飼い主さんと柴犬Kくんが、私と愛犬に静かに近寄り、双方おはようございますの挨拶の後、こう話してくれました
「先日の台風で二~三日お散歩に出られなかったんです。そうしたら、足腰が弱ってしまって、この子はもう15歳になりますから。四本脚が床にベタっと広がって、動けなくなってしまって。ボケーっとしているのがわかったので、私がリードをつけて持ち上げて、お散歩行こうよ!と言って引っ張って連れてきました。そうすると、外の匂いやコンクリートの感触やら何やらで、お散歩の楽しさを思い出したのか、ゆっくりでも、しっかり歩けたんですよ。それに、この子は、私のことを助けてくれています。歳を重ねて、この子がいなかったら、外にも出ようとしていないと思うのです。」と。

私は、このお話を伺っている間に、大切なことを気付かせていただきました。

①神様が、悪い出会いをした私達を、良い間柄にして下さったこと

②世界中には、神様しかおられないこととは、自然の中にも、コンクリートの上にも、外の様々な匂いの中にも、神様がおられるからこそ、柴犬Kくんも、神様に触れて、神様の愛に癒され、再び楽しんでお散歩出来るようになれたこと

③犬を迎えた家族は、お世話しているだけでなく、愛犬からも愛や助けをもらっていること。人も動物も、自分以外のすべてに助けられて生きていることを、再確認させていただきました。

その他、日常生活の全般にわたって、本当はまだまだたくさんの恩寵をいただき、生活させていただけているのだと、改めて、その一つひとつを、丁寧に感じられる自分自身になりたい、と決意致しました。

たくさんの方々のお便りをお読みいただきますのに、
私の長々しい文章を、お許し下さいませ。

明日からも、サイババ様を強く思い、世界中の人々と一つになり、神様の下へと共に歩むべく、ナーマスマラナに専心させていただきます。

ありがとうございました。

2024年8月18日日曜日

サイババの、御言葉 2024/8/18

 主の御名は、すべての思考と言葉と行いを促し、それらを愛に満ちたものにせずにはいられません。

御名は、人を確実に「その御名の持ち主のヴィジョン」へと導くことができます。

御名を唱える音声は、マテリアルでないものを明らかにするマテリアルであり、覚醒への扉であるジャダ〔自動力のないもの〕であり、そこに鎮座するチャイタンニャ〔覚醒意識〕です。

サーダナの目的は、クシェートラ(場)とクシェートラグニャ〔場を知る者(場の主/場を操る者)〕の両方を主として認識することです。

1987年2月26日

お便り13

 「神の御名」と「自分の名前」の違い。考えてみました。

自分の名前はこの身体が生まれたとき、この身体に対して付けられた名前。
エゴや執着の温床になってしまう、5元素からでき20の器官を持つマーヤーに形創られた身体の名称です。

神の御名は、普遍遍在で、無限の遠くにも すべてのの内にも 存在する神の名称です。

個人の名前を呼んだとき、その対象であるその人のところに響きます。

神の御名を呼んだとき、上下左右前後、遠くにも近くにも、あらゆるもの、すべてに響きます。
すべてに拡がるのは、愛の性質です。
神の御名は愛の性質を持っています。

神の御名を唱えることは、愛を表現することになります。
神の御名は愛そのものです。

だから、その拡がる神の御名を唱えることで、
個という個別性の意識が薄れていき、無執着が培われるのだと思います。

東京:男性

お便り12

 無執着とは、この世の変化する物事に囚われず、良い事も悪い事も永遠には続かない事を理解しているので、あらゆる欲にしがみつかず、苦しみのない状態だと思います。

無執着な人は、過去や未来ではなく今を生きている人だと思います。私利私欲を求めず周りの人々に愛で接する事ができる人。何が起きても心が乱れず平穏である人。

もし自分が無執着になったら、亡くなった愛犬を求め続けている自分の心を理解できるのかも?と思っています。

神の御名を唱えることが今の私にとって心のリハビリになっています。この機会に出会えたことに感謝しています。

岡山:女性

お便り11

 サイババ様からのナーマスマラナにつきまして、ランプの例えの動画を拝見させていただきました。
単純明快にして、印象深く心に残る内容でした。
ありがとうございます。

「ヴァイラーギャ(無執着)とはどんな状態?無執着の人はどんなひと?もし自分が無執着になったら?」

→私は、ヴァイラーギャ(無執着)とは、日常生活の中で、ほとんどのことを神様に全託出来ているひとだと、受け止めております。もし私が、無執着になれたならば、神様からいただく、すべてのモノ、コトを、これが良かった、あれが良かったなどと考えることなく、いただいたすべてを有り難く、感謝して、他の人への奉仕に専念出来るようになり、自らがサイのメッセンジャーになれるのだと、イメージしています。

「なぜ、神の御名を唱えること(ナーマスマラナ)で無執着を培うことができるのか?」

→私達の持つ、我や執着、あらゆる欲望を、神の御名を唱える毎に、それらを神様が受け取って下さり、代わりに私達の中に、神様からの愛で魂が満たされ、神様により一層近付けるからなのではないかと、考えます。

神奈川:女性


お便り10

 すべての人の幸せが、本当の自分の幸せにつながるんだということに気づいた人が、無執着の人に自然になっていくのだと思います。

神の御名を唱えることによって、神とつながり、その神の叡智(皆が苦しいから自分も苦しいんだ)が流れて来た時、自分も含めたすべての人や生き物の幸せのために生きることができるのではないかな。

無執着の人は、何が自分にとって本当に大事なのかが分かっているから、その他の大して重要でないことには執着しないのだろうな。

本当に何にも執着していないのではなく、自分も含めた皆が本当に幸せになることには執着していると思います。

大阪:女性

2024年8月17日土曜日

サットサンガショートメッセージ 2024/8/17

 「Sri Sathya Sai Officialチャンネル」で公開されている

サットサンガのメッセージに字幕を付けて公開しました。

「ナーマスマラナの効力」
https://www.youtube.com/watch?v=m4JjCE5Xw0w

今日の疑問/質問 2024/8/17

 ヴァイラーギャ(無執着)とはどんな状態?

無執着の人はどんなひと?

もし自分が無執着になったら?

なぜ、神の御名を唱えることで無執着を培うことができるのか?

お便り9

 今回このプロジェクトを受けて、自分の中で「私が本当に心に響く御名は何なのだろう?」と自問しました。

そしてそれは「サティアサイババ」と確信しました。

今まで「サイラム」とか、「オムシヴァーヤ」とか、唱えてましたが、はっきり「サティアサイババ」とは唱えていなかったのです。

どの神様の御名でも良いのかもしれませんが、多くの体験をさせてもらい、信じているのはサティアサイババ様なのに。

改めてその認識をして唱えたら、まさに心に深く響き、やっぱり私の信じる神様はサイババ様!と嬉しくなりました。

大事なことに気付かせてもらえて今回のプロジェクトに感謝です!

東京 女性

お便り8

 実際に神の御名と自分の名前を唱えてみました。

普段の生活で自己主張が強くない私にとって、自分の名前を繰り返し唱えることに羞恥心と違和感しか感じませんでした。愛しさや追憶の感情が心の内から全くわき上がってきません…

これって自分を愛せていないって事かな?と思ってみたり…

でも自分のことは大好きなんです。この違和感を知れた事は大きな気付きになりました。

これからの実践が実りあるものになりそうです。

岡山:女性

お便り7

 「幸せの御名99」プロジェクト一日目につきまして、自分自身の設定数のナーマスマラナを、無事にクリア出来ましたことを、サイババ様に感謝申し上げます。

「何故、神の御名を繰り返し唱えただけで、力や喜びや平安がもたらされたのでしょうか?」

 →私は、神の御名を唱えることで、私達一人ひとりが、神様への扉を叩くことになり、アートマ(神我、神性、本当の自分)原理を、私達一人ひとりの魂に思い出させることを、神様がして下さるからだと、信じているのです。

「世界には無数のモノやコトの名前があります。私たち自身にも名前があります。それら名前ではなく、何故、神の御名を唱えることがよいのでしょうか?」

→私は、サイババ様より、この世界のすべては神様以外おられないと習いました。それはとりもなおさず、すべてのモノやコトの、そのすべての中に、神様が内在されているので、真の名前である神様の御名を唱えることが、神様に直接、かつ迅速に繋がることが出来るからだと、受け止めております。

一日目の今日から、早速、私の自覚の中に、たくさんの気付きや学びをいただきました。

明日からの一日一日に、確かに私自身の内面の変容と再構築をいただき、一歩ずつ神様に近付けると、堅固に信じ、取り組ませていただきます。

ありがとうございました。

お便り6

 「甘さ」とは、神の慈悲の愛

「歓喜」とは、神に出逢えた喜び

「神の名」を唱えると喜び平安がもたらせられるのは、神と繋がり神さまと自分だけになります。

「神の御名を唱えると良いのは」神に集中することにより雑念や思考が消滅し神一点に集中しポジティブになり神の愛に満たされます。

神奈川:女性

2024年8月16日金曜日

今日から始まりました

 今日、みなさまそれぞれの神様の御名のもと

みんなで「幸せへの御名99」をスタートできたこと

すべての神様に感謝いたします。

神の御名には、すべてがあると言われます。

そしてこの御名を

唱えるものと、
唱えられるもの、
そして御名そのものがひとつになったとき
「すべて」の真の意味が分かると思います。

これから99日間、楽しい旅にしていきましょう。

サイババの、御言葉:2024/8/16

 巡礼者たちはバドリナーラーヤナの御名を繰り返し唱えていたので、そのことが、彼らに前に進むための力と鼓舞を与えました。

そうです、もし実践すれば、あなたは経験によって、唱名はあなたに喜びと平和を与えてくれるということがわかるでしょう。

神聖な力はあなたの中にあります。

その力はあなたの外側のどこかから来る必要はありません。

あなたはただ、その力が自ら現れることができるよう、地ならしをすればいいだけです。

1961年7月18日


今日の疑問/質問:20248/16

 何故、神の御名を繰り返し唱えただけで、

力や喜びや平安がもたらされたのでしょうか?

世界には無数のモノやコトの名前があります。

私たち自身にも名前があります。

それら名前ではなく、

何故、神の御名を唱えることがよいのでしょうか?

お便り5

 「甘さ」について

数年前ですが、「バガヴァッド・ギーター」の直訳本を読んだあと、ひたすらクリシュナ神が愛おしくなりました。

それはまるで恋をしたかのように、クリシュナ!と思っただけでため息がでるほどなのです。

それまでクリシュナについて何か知っているわけでもなく本当に不思議でしたが、思うだけで甘く甘く、幸せでした。

瞑想をした後やバジャンの後などに甘く幸せな時を感じることはありますが、本を読んで、しかもよく知らないクリシュナ神に何故?と今でも不思議な感覚です。

今回の神の御名でも、その甘さを体験したいと期待しています。

東京:女性

お便り4

 「甘さ」とは神の愛を感じた時に味わう感覚なんだと思います。神の御名は、心に神の愛を思い出させ、神の愛を感じた喜びによって、心にゆとりが生まれる。そのことで、他の人や生き物に対するより深い愛が育っていくことをこう表現されているのかな。結果、実際の人との対立や問題も避けることができるので、御名はお守りにもなるのだと思います。

大阪:女性

お便り3

 【⠀「甘さ」とは何ですか?

 A 愛で満ちたハートから溢れ出すもの。神の御名そのもの。


【⠀それは表せるものなのでしょうか?

 A はい。言葉・音楽・無私の愛 etc.


【⠀「歓喜」との関係は?

 A 内からわきあがる喜びや満足で心身ともに満たされて包まれます。そして周囲に放たれる愛となります。

お便り2

 私は、「甘さ」とは、神様からの愛の甘い味のことではないか?と、受け止めております。

そしてそれは、他にはどこにもない甘い味だと想像するのです。

神様からいただいた愛の甘さを、自分以外のすべての人に、すべては神様しかおられない、と思い、尽くす奉仕で表せると信じ切っております。

「歓喜」との関係は、唯一無二の神様からの愛の甘い味を味わえた時の、真実の喜びが、真の「歓喜」なのではないでしょうか?

その味を味わった人から、人へ、伝えることから生まれる感情が、「歓喜」なのではないてしょうか?


明日からの幸せへの御名99プロジェクトを、サイババ様からの大きな恩寵と心得ます。

感謝と愛と誠で、取り組ませていただきます。

見えないですが、参加される皆様と、同じ目標を持って、頑張ります。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

神奈川:女性

お便り1

 いよいよ明日からですね。

作業の有無に関わらずナーマスマラナと御姿が吹っ飛んでしまうことが多々あり、どうして定着しないものか悩んでまいりました。

今回のような機会をお与えくださった神に深く感謝いたします。

山梨:女性

2024年8月15日木曜日

明日から始まります

 明日8月16日から

神の御名と過ごす99日間が始まります。


神の御名が多くあるように、

この99日間の体験も

参加されている人の数だけあります。

劇的なものから精妙で気づきにくいものまで。


御名 = 神様


この事だけは確信を持ってみながら

99日間、共に歩んで参りましょう。

サイババの、御言葉:2024/8/15

 神の御名は甘さそのものであり、

あなたがひとたびそれを身に付けるなら、

あなたに内在しているあらゆる甘さを目覚めさせます。


その歓喜を味わったなら、

あなたはもう一時もその食物なしではいられません。


          1960年11月23日

今日の疑問/質問:2024/8/15

 「甘さ」とは何ですか?

それは表せるものなのでしょうか?

「歓喜」との関係は?