我々の本質が神だから、
理論的には
本質である、神の御名は、「いつも、喜び、感謝、歓喜、そして、その御名の無類さと壮麗さの自覚と共に」唱えなくてはならない」のでしょう。
ただ、迷妄でわれわれがとらわれているときはそれが迷妄であることを理解すべきなのでしょうか。
個人的は神の御姿(絵、彫像、写真など)を物理的にみることは(それが許されるのであれば)迷妄から遠ざかることができるように思います。
半泣きの笑顔でも笑顔は笑顔で、その本質は笑顔だと思います。
また、ガヤトリ―などのマントラは流すことに制約はなかったはずなので、迷妄から離脱するためによいかもしれません。
ただ、自分でお唱えするときに障害が生じるときにCDなどで聞きます。
神は恩寵を与えるために多くの試練を与えるように思いますが、それは罰ではなく,昇任試験ならばできうる範囲で受けたいものです。
神は決して見捨てることなく、乗り越えられないものは課さないのですから。
神の御意思にこのメールが合致しますように。
また過ちがあれば正されますように。このメールが愛をもって皆様に受け入れられますように。
このように思考し愛を感じることがそもそも神の恩寵だと思います。
千葉:男性